珍しく地理をいっしょに勉強してみたら・・・
きゃつは、メコン川をナイル川と言い放った。

そして、ツンデレの「もうひとつの語源」を
ツンドラと思っていたらしい。

が、話をきいてみるとただのボケではないらしく、
ツンドラ気候の「短い夏」がデレ状態という解釈であるらしい。

そんな私は、ASEANは聞いたことあるけど、
アジアNEISは習った覚えがないと、
時代の差を感じたしだい。
 2014.10.13 Monday 14:42 社会 permalink  
数学の問題が面白いことになったと思ったら演技だった!?(真相不明)
お久しぶりです。
ガゼーラです女の子
「足し算の順序問題」というのがあるらしいですね。
「問題で順序をわかってるか確認するなんて、びっくりでしょ〜マジで」的なことを母が熱弁してたのですが
私はあまり驚きませんでした
私が初めて見たとき一番驚いたのは
ずばり!!OOでわるところ…シリーズです
簡潔に言うと「計算を間違えたから君(この問題を解く人)がやってウィンク」
という問題です。
「自分でやれよショック」と正直に言うと
これは単なるドジではなく君のために問題のネタを作ってやったのだ ふふっ。
と本音を返されてしまうかもしれませんね汗
数学の問題も失敗するんだぁ〜リボン思って最初は笑っていたのですが
問題にしてみれば技能をつけさせるための演技にすぎないので恥もなにもないんだよな〜
汗と思っております女の子

結論↓
   数学の問題の役作りはプロ並み!?



結論で「?」って… まぁいっか汗
 2014.09.25 Thursday 15:25 数学 permalink  
サザエさん一家の名前をめぐるとりとめのない親子談義
ある夏の夜、
ごろごろ2人で寝付けずにいたら、
回遊魚の話になった。

そこからとりとめもなく
サザエさん一家の名前の話になったので
がんばって再現してみます。

どっちがどっちの発言かもわからなくなったので、
会話の中身のみ。



  マグロって回遊魚だっけ?

  カツオも?

  考えてみればさぁ、ワカメは植物じゃん。

  サンゴは動物らしいよ。

  フネさんは乗り物だよ。

  波平さんにいたっては、現象だよ。

  海平さんのほうがまだいいね。

  あれ? イクラって誰の子ども?

  ノリスケさんと…

  いやそうじゃなくて…サケか?

  じゃあ、養子かぁ。

  タラちゃんは?

  タラコ?

  マスの子じゃない?

  じゃいいのか。
  
(忠実に再現したのでこうなりましたが、
    あらゆる意味でまちがっています。)


  マスオさん、「オ」ついちゃってるよね。

  それいえばタラちゃんもタラオでしょ?

  波平さんなんて、波に平だよ。矛盾してるよ。

  凪子さんっていなかったっけ?

  そういえば、タイ子さんも魚の名前だね。

  サザエさんのイトコらしいよ〜〜

  へぇ、そうだったの! 知らなかった〜〜
 
 (それを言うならノリスケさん?)>追加記事
  
  アナゴさんって、社員なのに魚の名前がついているね。

  しかも苗字だよね。

  あとだれがいたっけ。

  花沢さん。それからかおりちゃんと中島。
 
  三平さんとかいなかった?

  酒屋さんかお米屋さん、配達する人。

  イササカ先生の奥さんは、
  フネさんのおさななじみだよね。
  名前なんだっけ?

  娘もいたよね。

  息子もいた。めがねかけてる。

  そういえばカツオの同級生で
  もうひとり女の子いたよ。

  なんだっけ名前・・・

  ヨシコちゃんって感じの顔の人。


  (娘、爆笑)

   あと、たま! 
  

  いいから寝ろっ>そこの親子




以上、お粗末さまでした〜
 2014.08.03 Sunday 22:55 親子談義 permalink  
正負の数の加減の計算、気をつかったら倍返し!?
数学の宿題中の娘、途中式で出てきた

   3−24

を見て、
「これひどいね〜、いじめじゃん」
と、のたまう。

まあねぇ、3しかもってないところから
24ももっていこうとするんだもんね、ひどい話だ。

で、それはそうとして、少し前から、
「どこから計算したらいいのかわからない」
というようなことを娘が言っていたので、
何がどうわからないのか確かめてみることにした。

四則の混じった計算だろうかと思い、
ちょっとやらせてみるが、
どうもこのタイプではなさそう。

「プリントを見ればわかるよ」
と娘がいうので、のぞいてみたら、
加減だけの計算で間違っている。

ふむ。

○+○ー○ や
○ー○ー○ はだいたいできているが、
○ー○+○ で勘違いをすることが多いみたい。

「ー」より「+」に目が向かって、
○ー(○+○)というふうに
勝手にかっこをつけているのかな?

で、娘と話をしたのだけれど、
どうやら次のような感覚があるらしい。

たとえば 2−5+8 という計算では、
2ー5 をあとまわしにしたいのだそう。

これも弱いものいじめが絡んでいるのかしらん?
つまり、弱いものいじめを避けた、と?

だから先に 5+8 をしたということらしいのだが…

あのぅ…
それって結果的にぃ…
本当は最終的に3をもらえたはずのところ
13もっていかれてるんですけどぉ……号泣

これはあれでしょうか、ヘタに気を遣うと
かえって相手を傷つけることがあるという
教訓でしょうか。

いや、単に、正負の数の計算規則を
まだわかっていないということでございますね。

ひきつづき精進を望む。
 2014.07.26 Saturday 13:45 数学 permalink  
よし、では詩を書こう……数列歌。
娘に所望されて、詩を書くことにした。

実は最近noteで、
「五行歌」というものを知り、
興味を持った。

がしかし、これがなかなか難しい。
短歌のようにお遊びもできない。↓

タカギタイキチロウ『インコ短歌全集​』に
インスパイアされて『テトラ短歌全集』を作ってみた。


短歌の造詣はゼロだけれど、
57577のありがたさを知った。

で、何か手はないかと考えて、
ふと思いついた。

等差数列歌というのはどうだ?

とりあえず「初項1、公差2」バージョン

 あ
 そこは
 ゆるしてね
 おもいつきだし   
 ふかいいみはないし


全部平仮名だとアホみたいだ。
漢字だとどうだろう?

 あ
 そこは
 許してくれ
 思いつきであり
 深い意味はないのだ


 
一瞬賢くみえたような気もするが、
完全に気のせい。

っていうか、そもそもなんの話?

音にこだわるか、見た目にこだわるか。

やはりここは音だろう。

 ムーンシャドーという
 ひまわりの名を
 つけたひと
 ありが
 と

 
 ↓
https://note.mu/tamami_tata/n/
n4efd90fe08ce?magazine_key=m66b28bde8998



 そばにいたむすめが
 わがははながら
 ほんとうに
 ひどい
 と
 


 初項がいかんのじゃなかろうか
 14から始めてみる
 少し余裕が出たよ
 ほかの初項でも
 やってみよう


 
母に意味を求めてはいけない
 初項15から始めても
 結局は同じことさ
 けれども本人は
 なぜか楽しい


 公差3でもやってみようと思います
 初項は19になってしまった
 指と電卓が必要で
 リズムがつかみにくい
 向いていないか


 さすがに娘があきれて
 もうやめてと言ってる
 ドーターストップ
 かかりました
 おしまい


 いや
 まだまだ
 まだつづけるのだ
 今度は等比です公比は2です
 すごいさすがに文字数がいきなりふえて指を折るのも大変です


 だれか私をとめてくださいああそうかさっき娘がとめたのです
 やはりだめだ私は詩が書けない
 欲しいのはたぶん
 何かの
 枠
 

 いいからはやく
 あそんでないで
 ごはんのしたく
 初項は7で
 公比は1で
 2014.07.08 Tuesday 18:41 その他 permalink  
おそらく玉砕と思われるが、いい経験をしたらしい娘、はじめての期末テスト
娘が小学校1年生でテスト・デビューして早6年。

ついに「定期テスト」デビューの年齢を迎えた。
感慨深い。

というわけで、初めての期末テスト。

私、自分はもっと教育ママになるかと思ってたんだけど、
小学校ではそれほどでもなかった(特に高学年)。

さすがに中学生になると口出すかな?と思いきや、
これがさっぱり口を出す気にならない。

何しろパソコンの前で遊んでばっかりいるからねぇ。

「もう私は十分にテストをやったんだ!
 なんでもう一度テスト準備しなくちゃならんのだ〜〜」
と思っているわけではないのだが(ちょっと思ってる)、
「とりあえずまかせてみまっしょ」
と思いながら見守るともなく見守るうち、
テストが目前にせまってきた。

ちなみに、ふだんの様子から、
こりゃテスト勉強はしとらんな、
ということは感じていたので、
もう少しでテストという頃、
「絵に描いたような一夜漬けになりそうだねぇ」
とコメントすると
「漬けないよ」という返事。
どうやら生野菜でいくらしい。

誤解なきよう申し添えておきますと、
娘は日ごろからきっちり勉強するタイプではありません。
授業をきいておけば十分というような
器用さも優秀さもありません。

そしてテスト当日。

初日はいつもよりほんの少し早く目が覚めたらしく、
ほんの少し早めに学校に行ったのだが、
みんなも早めに登校していたよう。

娘「なんだかみんな楽しみにしていたみたいだよ」

いや…それは微妙にちがうんじゃないかと…
いや、そうなのかもしれませんが・・・
そうなんでしょうか…
母は中1の1学期の心理はもはや思い出せないし
想像もできませぬ。

そうしてテストが終わった。

まだ答案返ってきてないうちにあれなんですけど、
たぶん悲惨な結果だろうと覚悟しております、はい。

で、「親子してショックを受けて、
このあとがんばろうね!」と言うと、
「私、ちょっとやそっとのことじゃ
 ショックは受けないから…」
と胸をはる娘。

「小学校時代、漢字テストの居残りで
 3人のうち1人だったもん」

なんか・・・

母はテストの前に・・・

というか、テストとは別のことで・・・

なーにーかーが−不安なんですけど・・・

そして、気になる数学の手ごたえでございますが、
娘から話をきく限り、私は約40点と予想しております。

何しろ娘いわく
「のんびりやっちゃったのよねぇ〜
 時間を考えるということが頭になかった」

ああ・・・

それはだいぶ前からの懸念ではありました。

理解度はともかく、
この人は時間を気にする、
時間と戦う、
ということができない。

丸3日あたえれば、
80点くらいはとれると思うんですが。

これ(時間との戦い)は教えていくことなんでしょうか、
どうなんでしょうか。

そんなこんなでテストを終えた娘の
直後の感想は、なぜか「気持ちイイ」というもの。

ん?

終わってほっとしたということなのかな?

と思いきや、そういうことでもなく
(そういうこともあるのかもしれないが)
ある種の爽快感を味わっているもよう。

どういうこと?ときいてみると、
「秘密」だそう。

さいですか。

ちなみに、この話をブログに書くにあたり
細かいことを確認しようとしたら、
「終わったことだから」
と鬱陶しそうに言われた。
すみませんねぇ。

まあ、まだ答案も返ってきてないしね。

でも。

たぶん、終わったんじゃなくて、
何かが始まったんだな、
始めなくちゃいけないんだな、
と思う母なのであった。



その後、返ってきました答案。

生野菜、伸び代、ありまぁぁぁす。号泣
 2014.07.07 Monday 18:19 学校生活 permalink  
私は娘から期待されているのか、ダメ出しをされているのか?
娘が、私に「詩」を書いてほしいという。

何か芸術活動をしてほしいらしい。

娘「あれかな…自分がやりたいから、
  代わりにやってほしいのかな……」

ああ、そういうことってあるかもしれないねぇ。
ただ、母娘の立場が逆かと。
娘にとって、芸術活動とはどんなものか、きいてみた。

娘「凝ったこと」

私「ママのブログの文章とか、凝ってない?」

娘「ママって……先生なのかもね……」

     ドキッ

娘「伝えたいことを、まっすぐ説明しようとする。
  かっこつけてない。
  そうじゃなくて、最初に読んだときに、なんじゃこれ!?
  となれば、読んだ人考えるでしょ?
  わけがわからないのでもいいし、
  シンプルすぎて逆にわからないのでもいい。」

noteのほうに公開してる、「かなぶん」じゃだめ?
https://note.mu/tamami_tata/n/
n66a3ce6a7c66?magazine_key=m2bcdcf876e9c


娘「あれは″意味”がないでしょ」

母「……はい。ないです。ただの言葉遊びです。」

どうやら、わかりにくくても、わからなくてもいいが、
「意味」は必要らしい。

娘「そんなママを見てみたいんだよね」

やはりどう考えても、
親子の立場が逆転していると思う、
週末の夜の親子談義なのだった。
 2014.07.06 Sunday 10:22 親子談義 permalink  
芦田宏直「キャリア教育の諸問題について」(3)/専門的な知識とは商品知識ではないということ
『努力する人間になってはいけない―学校と仕事と社会の新人論』
( 芦田宏直著/ロゼッタストーン/2013年)の

「第8章 キャリア教育の諸問題について
     ------学校教育におけるキャリア教育とは何か
        (ハイパー・メリトクラシー教育批判)」

を読んでいる。

第8章についてはこれで一区切り。



芦田さんは、
かつて専門学校の校長をなさっていたこともあり、
いまも別の専門学校の顧問を務めておられるようなので、
この本には専門学校の話もよく出てくる。

そのなかでなるほどなぁと思ったのが
靴のデザインの話だった。

芦田さんが、工芸学科を持つ専門学校の科長と
話をする機会があったときに
特に靴のデザイン、カバンのデザインを行う
コースの実習を見学させてもらったそうなのだが、
そのときに「大学に負けるところはどこですか」と聞いたら、
専門学校では「運動靴のデザインができない」と
お話しされたのだそう。(p.261)

なぜかというと、
足の生理学についての授業が
専門学校では無理だから。

100メートルをコンマ何秒の単位で
速く走らなければいけないときの靴の造形は、
造形の主観的な美だけでは済まない「知識」を要求される。

同じように、「メイクや肌の手入れ」
「動物に関する幅広い知識」
「食事や入浴などの介護技術」も
心理的な(顧客の)満足や
コミュニケーション能力に解消されない
「知識」(の質)を要求されている、と。

実際、調理分野と理美容分野の専門学校留学生は
卒業後日本国内で就職ができないのだそう。

どちらも資格職ではあるけれど、
入管的には「技能」職、
つまり体系だった知識の不必要な「経験」職と見なされ、
「技術」職とは見なされていないのだとか。

ほんでもって、生活ブログのほうで
自分が卒業した大学の現在のシラバスを確認したら
コミュニケーション祭りで驚いた話を書いたが、
専門学校でも「コミュニケーション能力」育成という
テーマが流行っているらしい。

なんでも厚生労働省が2004年に11,255社に対して実施した、
企業が若年者に求めている就職基礎能力調査の結果を見ても、
(回収率は13.1%だそう、約1470社ですね)
高校卒業レベル、大学卒業レベルどちらでも
「コミュニケーション能力」を上げた企業は
85%を超えており、トップの要求をなしているそう。

この調査結果が、
「YES-プログラム」(若年者就職基礎能力支援事業)
http://www.mhlw.go.jp/general/seido/syokunou/yes/01.html
に結実したということらしい。

ちなみにH21年度に終了したもよう。
http://www.mhlw.go.jp/bunya/nouryoku/yes/

その中身をのぞいて思いました私。

これはやはり、あの部分をもう一度引用しておかねばなるまい、と。↓
 この種の〈力(ルビ:りょく)〉能力の特性の一つ一つは、学校教育(=若者)に特有な課題ではないということだ。「若年者」を離れれば、大概の大人は「コミュニケーション能力」を身につけているというのか。そんなことはあり得ない。世の中の組織の会議(民間であれ、官庁であれ)で、まともな議事が進行する会議がいくつあるというのか。ほとんどの場合は、「コミュニケーション」不全状態でしかない。大人の自分たちでさえコントロールできない「コミュニケーション」を、なぜ「若年者」に特有な課題(あるいは学校教育に特有な課題)であるようにでっちあげるのか。私にはそのセンスがわからない。その場合にでも、そもそも現場(=社会人の現場)にその種のコミュニケーション能力が不足しているのは、学校教育におけるコミュニケーション能力育成の不在にあるとでも言うのだろうか。
(p.257〜258)

何度も言うけど、まったくだ。

話かわりますけど、
西條剛央『構造構成主義とは何か−次世代人間科学の原理−』
(北大路書房/2005年)
を手にしたばかりの私の第一印象は、
「研究者の世界ってめんどくせぇ、つきあいきれん」
というものだった。
(その後、印象が大きく変わりました。
 というか、だからこそ!と思いました。)

現場のコミュニケーション能力不足は、
学校教育のせいにしないで
現場で解決していただきたいものだ。

とにもかくにも、
このような〈力〉(りょく)ばやりは、
厚労省に限ったことではなく、
2003年の「人間力」(内閣府)、
2006年の「社会人基礎力」(経産省)、
2007年の「学士力」(文科省)と、
他省も〈力〉(りょく)のオンパレード。

  ひょっとすると文科省の「生きる力」も
  「いきるりょく」だったのか!?(^m^)

芦田さんは、このような〈力〉教育の
反対語は何だろうと考えたとき、
それは「専門教育」に他ならない、と言う。

たとえば生活ブログのほうで、
トヨタは車好きを採用したがらない話を書いたが(>)、
車に関連させていうならば、
車のことについてよく知っている人が、
必ずしも車をよく売るとは限らない。

また、車の営業マンが車を「知る」ということは、
車のメーカーや整備士が車を「知る」ということとは
まったく別の意味でのこと。

専門的な知識とは商品知識のことではなく、
接遇の″技術”を会得するようにして
獲得できるものではない。

営業に〈知識〉が必要である度合いは、
人間性(=人柄)が重要、
話し上手であることが必要という度合いと
ほとんど変わらない。
その意味で営業にとって、
〈知識〉は単なる道具にすぎない。

しかし、「メイクや肌の手入れ」
「動物に関する幅広い知識」
「食事や入浴などの介護技術」
にとっての知識は
人間性と代替される道具ではない。

それらは、「専門的な知識」がないと
対象に関われない領域を有している。
知識は相対的な道具ではなくて
対象そのものに関わっている。

「肌」「動物」「生体」などについての
科学的な(=反経験的な)知識なしには、
それらと関わることは困難。

このような知識は、
人柄がいい、笑顔がいい、マナーがいい、
話がうまい、説得力がある
などということとはまったく独立に
獲得されなければ得られない質が存在している。

とにもかくにもキャリア教育は
「○○力」で示されるような
〈力〉(りょく)教育の掃きだめになっている、
と芦田さんは指摘する。

具体的な人材教育に定位している専門学校で
そのような〈力〉教育が必要だとされるのは、
大学教育とは別の意味で
専門教育ができないということを
露呈しているだけだ、と。

それは、専門学校が担う「専門性」が
カリキュラムにおいても教材開発においても
教員の質においても貧困だということ。

〈高等教育〉に耐える職業教育の道のりは
まだまだ遠いと言わざるを得ない、
と芦田さんは第8章をしめくくっておられる。


  さて。

  娘。

  どうするよ・・・


というわけで、この本の第8章についてはここで一区切りです。

トークセッションの感想は、
たぶん数学教育ブログのほうで書きます。
 2014.06.10 Tuesday 12:49 キャリア教育の諸問題について permalink  
芦田宏直「キャリア教育の諸問題について」(2)/大学における「キャリア教育」の行方と、初等教育のことを少し
( 芦田宏直著/ロゼッタストーン/2013年)の

「第8章 キャリア教育の諸問題について
     ------学校教育におけるキャリア教育とは何か
        (ハイパー・メリトクラシー教育批判)」

を読んでいる。



何しろ娘は中学生になったばかりなので、
保護者としてリアルに考えられるのは
せいぜい高校進学くらいまでの話なのだが、
この本を読んでいると、
がぜん大学のことが気になってくる。

しかし自分が大学を卒業してざっくり30年。
しかも、たったひとつの大学の
たったひとつの学部しか知らないのだから
自分の経験をもとに「大学ってこんなところ」
と考えてはいけないのだと
しみじみ思うきょうこのごろ。

思えば「キャリア教育ってなんだか不安…」と感じても、
やはり小学校でなされることは
いい意味でたかがしれていて、
小学校の先生の話からもわかるように
とりあえず上からミッションでやらされる、
そういうものになっているのかもしれない。

しかし大学や専門学校はいよいよ就職が目の前だから、
そうはいかない。

なんでも、キャリア教育に特化した
大学、短大につぐ第三の高等教育機関が
つくられようとしているのだとか。
http://sukkiri.artet.net/?eid=1407735

 ちなみに上記記事の最後で、
 第8章からいちばん抜き出したかった部分を
 すでに引用済みなので、
 よろしかったらそちらも読んでください。

芦田さんは、とあるエピソードを紹介したのち、
大学において全学で共通する教育目標を揚げると、
必ず「コミュニケーション能力、課題発見・問題解決能力、
分析力、IT力」などということになる、
と指摘している。抽象的な目標になる、と。

なぜそういうことになるかというと、
こういう抽象的な教育目標は
各学部の講座の内容を
まったくいじらなくてすむものだから。

学部の教授たちは、
こういった教育目標に反対しない。
教授会ではすんなりと通過する。
なぜかというと、
自分のシラバスを変える必要がないから。

それらは非常勤の外注教員がやってきて
オプショナル科目の中で消化されるか、
一教員のシラバスを変えるだけのこと。

全体のシラバスが変わるとしても
シラバス″書式”が変わるだけであって、
授業が具体的に改善されるわけではない。

ふむ。

で、一度大学の話からはなれて思い出したことを書くと、
第7章の感想を綴っている数学教育ブログで
私はこんなことを書いた。
http://math.artet.net/?eid=1422150
しかし、高校卒業時、あるいは中学卒業時に、進路に関わらずすべての生徒に共通した「目標」とはなんなのか。いま実際に設定されている「目標」は「目標」たりえているのか。それを考えていくと、なかなか難しいものがあるなぁ、という気持ちになってきます。

大学の全学で共通する教育目標を掲げると、
○○力(りょく)のオンパレードになるのだとしたら、
中学卒業時あるいは高校卒業時の目標は
まさにこういうものになってしかるべき、
ということになりますよね。

そうなると、芦田さんと『学び合い』をめぐって
意見が対立している(と私が認識するところの)
西川純さんが、以下のような発言をされるのも
(同意はできないけど)理解はできる。↓
理解はできるけど私はそうは思っていなくて、
そして、芦田さんとも少し考え方が違っていると思う。

私は、初等教育でも「学問」はできるのではないか、
と考えている。

というか、それをやらなかったら「学校」の意味がない、と。

「学問」とは「知識」を教え込まれることではないだろう。

先人達がやってきたことをでき得るかぎり受けとめて、
そこから自分が一歩進ませ(あるいは自分のものとし)、
それを他の人たちにも渡していく、
それが「学問」だと私は思っている。
(違ってたらごめんなさいね〜>「学問」の専門家)

つまり、「学問」とは「つくる」ことだ、と。

この話は長くなるのでまたの機会にして次に進むと、
芦田さんはとある論文(レポート)の
「感想」の形で話をすすめているが、

 要するに、意見調整できない、本格的なカリキュラム改革に手をつけられない、かつ誰もが反対しないが誰もやる気のない教育目標が「コミュニケーション能力、課題発見・問題解決能力、分析力、IT力」「21世紀の課題の解決に対し挑戦し、行動する人材教育」なのである。

(p.253)

ということらしいのだ。

ため息が出ます。

そして、なぜ大学は、キャリア教育、
人材目標を棚に上げたいのか、
ということについて、
とてもわかりやすいシンプルな答えが示してある。

それは先生たちが就職に興味がないからである。

(p.254)

なるほど〜。

大学の「就職」指導とは、大学院進学でしかない。

確かに。

あと、かねてから思っていたことなのだけれど…

高校までの先生は
「教育」という仕事に従事していることが
はっきりしていると思うのだが、
大学の先生って、
「研究者」であると同時に
「教育者」なんですよね。

そのどちらのウェイトが高いんだろう?
なんて考えることがある。

基本的には「研究」だけで食っていけたら
こんなにいいことはないと思ってるんじゃなかろうかと
勝手に(ほんとに勝手にですスミマセン)想像している。

「教育」するにしても、
大学院以降の少数の研究者の卵に指導するならいざしらず、
学部生へのマス教育がやりたくてしかたなくて
大学の先生をやっている人たちって存在するのかな?

その点、教育学部は、教育することを研究し、
教育するところを教育するという
面白いところではある。

が、折にふれ大学の先生たちの考えに接触するたびに、
こういう思いにかられる私。↓
とにもかくにも、芦田さんのこの指摘には なるほどなぁと思わずにはいられない。↓
 大学の先生のマインドは、ほとんどが大学院研究室の師弟マインドで満たされているのだろうから、“外”に出る学生の企業就職など意識できるはずがない。専門学校と違って、大学の教員は企業側に向かって相対的な独立性を有している。そのことこそが大学の矜恃というものだ。そんな大学で「キャリア教育」を担えるはずがないではないか。
(p.254〜255)

だから大学でそういうことするくらいなら、
いっそ別の学校を作って、ビジネス界の人呼んできて、
レクチャーしてもらったほうがいい…ということに
なったりするんだろうか?

そうすると、「第三の高等教育機関」も
あながちない話ではない、
ということになってしまうのだろうか?

今日の大学全入時代においては、
「研究から教育への転換」というのが
大きなスローガンになっているとのこと。

このことの意味は、キャリア教育=就職指導を
教授たちのコアの科目で担いなさいということ。

つまり、このスローガンの意味は、
もはや就職指導は「就職センター」の仕事ではなく、
教務の仕事であるということを示している。

しかし、それをわかっている大学関係者は少ない、
と芦田さんは言う。
「教育」を「教授法」程度の意味でしか
考えていない、と。

文部科学省は「教育研究」といい、
「人材教育」と言っている。
「人材教育」とは就職指導と同じ。

もはや「人材教育」とは
大学院進学とは何の関係もない社会人教育、
つまり実務家教育でしかない。

それが大学全入時代の大学に求められているのだけれど、
混迷を続けている、と芦田さんは指摘する。

(つづく)
 2014.06.10 Tuesday 10:43 キャリア教育の諸問題について permalink  
芦田宏直「キャリア教育の諸問題について」(1)/接遇教育は専門教育の衰退を加速させる
というわけで、
『努力する人間になってはいけない―学校と仕事と社会の新人論』
( 芦田宏直著/ロゼッタストーン/2013年)
の「第8章 キャリア教育の諸問題について
  ------学校教育におけるキャリア教育とは何か
    (ハイパー・メリトクラシー教育批判)」
を読んでいく。




キャリア教育の諸問題について、芦田さんはまず、
身近なところからこんな例を出してくる。
通っている散髪屋さんの接客の話。

「かゆいところはありませんか?」
「目や耳に水は入っていませんか?」

そんなことを客にきくのはおかしい、と。

大概の客は、「・・・せんか?」ときかれて
それを伝えたりはしない。

店員は結局のところ、
「・・・せんか?」ときくことで、
顧客に甘えている。

著者は言う。
消費者のパワーが怖いのは声を上げるからではなくて、
黙って立ち去るからだ、と。

そして、大概の接遇教育は、
このレベルのコミュニケーションに
とどまっていると指摘する。

本来の接遇は、
顧客にわざわざ聞かないですむための
接遇でなければならない。

一流のレストランと三流のレストランの違いでも、顧客にテーブル上で足りないものを意識させてわざわざ手を上げさせてしまったらもう終わりだ。フロアマネージャーがお客様のテーブルの食事進行をいつも見続けていて対応できるかどうかが一流かどうかの鍵(の一つ)を握っている。

(p.245)

私も、ときと場合によるとは思うが、
「消費者の怖さは黙って立ち去るところ」
という考え方に基本的に同意する。

クレームをつける消費者は、
お店のためを思って…というより、
自分がそうしたくてそうしていると思う。

大概は、思うところがあっても黙って立ち去り、
「もうあそには行かない」ということになると思う。

お客さんの髪を洗ったあと、
目や耳に水が残らないような「拭き取り」とは何か、
どうすればそのような「拭き取り」ができるか、
万が一拭き取れていない場合に
顧客はどんな表情やそぶりをするのか、
その判断をふまえて何をすればいいのか、
それができればわざわざ客に聞く必要はない。

したがって、「拭き取り」は接遇の対象ではなく、
専門教育の課題になる、と。

「拭き取り」という作業(スキル)を、どの程度の解像度(初級・中級・上級「拭き取り」)を持って教えているかという専門性そのものの課題だ。

(p.246)

  この「初級・中級・上級」の話は
  第1章から出てくる。
  コピーをとるにも初級・中級・上級がある、
  というふうに。

著者いわく、接遇教育やコミュニケーション「スキル」教育は、
こういった専門教育の衰退を加速させているだけだ、と。

 あらゆるスキルやコミュニケーションは、専門性の研鑽と薫陶の結果出てくるものにすぎない。インプット(ストック)のないアウトプット(コミュニケーション)は存在しない。

(p.247)

なるほどねぇと思った。

すごく簡単に言うと、
「客に聞く前に、観察しろ、判断しろ、考えろ、行動しろ」
ということになるのだろうし、
そうできるようになるために
「学べ」
ということになろうかと思う。

そして私はあることを思い出した。

私は(かれこれ30年前)学校教育学部の
小学校教員養成課程に所属していたのだけれど、
大学の3〜4年生頃、
「教えるものと教え方は分離できない」
ことに気づき、
そのことに気づいたことで
教えるものと教え方は分離できると自分は思っていた、
ことに気づいた。

〔関連記事〕
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教育実習の影響もあったと思うが、
当時演劇サークルに入っていたので
その影響が大きかったような気がする。
すなわち、「伝えることと伝え方は分離できない」と。

私はそれまで教師というのは
「教える」のが仕事だと思っていた。
だから、「教え方」に心を砕くのが本分だ、と。

それは裏を返せば、
「教えること」は決まっている、
と思っていたことになるともいえる。

あるいは、教えることは与えられる、と。

考えようによっては、学習指導要領や教科書によって
「教えること」が与えられるといえば与えられる。
また、かけ算も分数も、自分が生み出したものじゃない。
そういう意味では「与えられたもの」だ。

しかし、どう教えるかということは、
何を教えるかということであり、
「教えること」の内容への
深い洞察なしにはあり得ない。

現在の小学校現場の算数で起こっている妙なことは、
ほとんどの場合、ここの部分の取り違えから
発生していることなのではなかろうか。

すなわち「どう教えるか」に心を砕きすぎるあまり、
「何を教えているか」がわからなくなっていく。
あるいは、教えているその「何か」に対しての
洞察を深めようとしない。
または、(小学校教師は)自分はそこに
立ち入れないと思っている。

だから、いろいろと「くふう」をしようとする。
わかりやすくしてあげよう、
解けるようにしてあげよう、と心を砕く。

「かけ算とは何か」ではなく、
「かけ算をどう教えるか」を考えることに時間をかける。

「割合とは何か」ではなく、
「どうやったら子どもたちは割合の問題を解けるようになるか」
を考えることに時間をかける。

そのうちに、なんだかよくわからないことになっていく。

教員に関していえば、その「スキル」も
専門性といえば専門性なのかもしれない。

また、私のこの発想を短絡的に考えると、
教員養成系大学は、
「かけ算とは何か」「割合とは何か」を教えるところ
ということになってしまうかもしれない。
(本来は、教える"何か”の洞察を深めるスキルが
 その専門性になるとは思うのだが、自分でも保留)

そういうふうに考えていくと、
教員養成系の学部は、
いったい何を教えるべきなんだろう、
どういう場所であるべきなんだろう
という疑問もわいてくる。

何しろ教育系学部は
教育することを教育するという面白い場所なので。
大学と小学校・中学校の違いはあっても。

とまあ、そのあたりの問題意識は
いったんわきにおいといて、
先を読み進めていきたい。

(つづく)
 2014.05.30 Friday 11:13 キャリア教育の諸問題について permalink