なつかしい心理テスト

先日、娘のお友達が、心理テストをしてくれた。
何かの本に載っていたらしい。
「道を歩いていると、向こうから誰かがやってきました」
というようなもの。
ああ、昔そういうのやって遊んだなぁ〜!

で、次の2問に自分で妙に納得。

◆ テスト1 ◆
================
部屋の中に椅子があります。
どんな椅子がいくつありますか?
================

このテストは、
ちょっと考えれば意味(オチ)がわかりそうなものだし、
同じテストを過去にやったような気もするのだけれど、
意味を考えるより前にありありとイメージが浮かんでしまい、
嬉々として答えてしまった私。

私のイメージ:
 茶色の合皮張り、適度にクッションがあり、
 高さが絶妙で、とても座り心地のいい椅子が1つ。

娘のイメージ:
 不思議な椅子が5つ。

椅子が表わしているものは…
 白文字→将来の家族の人数


◆ テスト2 ◆
================
道を歩いていると、バケツがあります。
どうしますか?
================

娘の答え:
 ほうっておく。

私の答え:
 慎重に中をのぞく。

バケツが表わしているものは?
白文字→老人

うーむ、なるほど〜〜


本日のマンゴー通信

☆☆☆ 本日のコーディネイト ☆☆☆



なにか言葉を入れようよ〜と言ったのだけれど、
これでいいらしい。


私にもやらせて〜〜



どう?



コーデチュール(着せ替えトルソー)

今年の誕生日プレゼントのひとつは、
ハルミカ コーデチュール コーデバック
なるもの。

トルソーの裏側に切り目が入っていて、
布を巻きつけて切り目にはさみこみ、
コーディネートを楽しむというもの。

お人形ではなくトルソーだということと、
縫製されていない布を巻きつけて楽しむというのが新鮮で、
珍しく私も興味を持った。

で、親子で遊んでいるところ。


☆☆☆ 本日のコーディネート ☆☆☆



雑誌仕立てにしたいという娘の希望により、
こうなった。


おばさん

地域ごとに行う学校のイベントに参加した。
子どもは25人くらいだったかな、
大人は、最初は4人、最終的には8〜9人。

クラス単位ではないし、学年も入り混じっているので、
ほとんどの子どもの名前がわからない。

で。

遊んでいる途中、背後から「おばさん」という声がした。

「だれを呼んでいるのかな?」と一瞬思ったが、
ふりむくと小さな女の子が私を見ていて、
あきらかにそれは私をよぶ声であった。

そうかぁ。おばさんだよねぇ。

年齢的にも立場的にもおばさんで何の不思議もないのだが、
これまで呼ばれたことがなかった。
大抵は「○○ちゃんのおかあさん」「○○ちゃんママ」
なので。

子どもたちは、親の顔を覚えるのが早い。
こちらがだれかわからなくてもよく挨拶してくれるし、
声をかけてくれる。

娘いわく、私が娘以外の子どもに声をかけるときは、
声がかわいいらしい。

みんなかわいいからねぇ!ラッキー
もちろん、○○ちゃんもラブ


子育ては「仕事」ではないと感じるときの、その意味

このブログには生活のほんの一部しか書いていなくて、
それはすべて本当の出来事であるけれど、
たとえ本当の出来事だけを書いたとしても、
取捨選択することにより、
ある意味では、事実を忠実には描いていないのかもしれない、
思うことがある。

しかし、事実を忠実に描くことが目的ではないので、
それでいいような気がするし、
これはこれで描かれた事実なのだと思う。

そういえば、
取捨選択して並べることはウソじゃないと、
映画「全身小説家」で井上光晴が言っていたような。

もうすぐ1学期が終わるけれど、この1学期は苦しかった。
過ぎてしまえばアレコレ解釈はできる。
新年度で混乱していたのだろう、とか、
あの行事で疲れていたのだろう、とか、
これも成長の途中経過なのだろう、とか。

しかしそうはいっても、
まさにその最中、
外から眺めることのできないその時の中にあっては、
やはり苦しいものは苦しいし、
混乱するし、
わけがわからないのだ。
いまだってそう。

そんななか、子育ては仕事ではないなぁ、
と思うことがある。

私は現在、自宅で細々と教材関係の仕事をしていて、
それは「お仕事をもっているおかあさん」の
「お仕事」とは少し性質が違っていると感じていて、
拘束時間もないに等しいし、
気がむいたときに思い出したように
ちんたらやっているだけなので、
それを「お仕事」と言っていいのかどうかは
はなはだ疑問なのだが、お金はいただいているので、
やはり仕事なのだろうと思う。

で、あるとき考えてみた。
お仕事にとっていちばん大切なものはなんだろう?と。

たぶんそれは、「自分の能力を知っていること」
なんじゃなかろうか。

あるいは、「自分の領分を知っていること」
と言ってもいいのかもしれない。

たとえば、私の仕事についていえば
いちばん大切なことを1つあげるとしたら、
「納期を守ること」だと思う。

もともと無理な仕事は請け負わないほうだったが、
最近はその傾向が強くなり、
納期の3日くらい前には無理なく終わらせられるだろう
という感触のある仕事しか受けていない。

つまりそれは、自分の能力以内の仕事かどうかを
引き受ける前に判断することであり、
そのためには自分の能力と、その仕事にかけられる時間、
労力のメドを立てておかなければならない。
納期の3日前というのは過小評価かもしれないが、
まあそこには“やる気”の問題も含まれていて、
やりたい仕事ならば過大評価になることもあるのかもしれない。

このあいだ姉に、
「おねえちゃんの仕事でいちばん大切なことって何?」
ときいてみたら、「時間を守ること」という返事が返ってきて、
なるほどなぁと思った。

で。

なぜ、子育ては「仕事」じゃないと感じることがあるのかといえば、
自分の能力の問題じゃないと思うからだ。

あるおかあさん友だちに、
「時々、(子育てに対して)白旗あげたくなることがあるんだよねぇ」
ともらしたら、うんうんと頷いてくれた。

もう自分としてはいっぱいいっぱい、
これは自分の能力を超えている…
と感じることがあっても、
それはあきらかにどこまでも私の領分なのだ。
代わりはいない。

子育てをはじめてしみじみ思うことは、
人はひとりじゃ生きていけないし、
生きちゃいないということなのだけれど、
と同時に、孤独感も知ったような気がする。
淋しいというのではない、
原理的な孤独感とでもいうか。

たくさんの人の助けを借りている。
たくさんの人に支えられている。
しかし、いつ、だれから、どんな力を借りるのか。
その判断と行動は自分で下し起こさなければならない。

で。

子育ての苦悩につきあたったとき、
その解決の糸口を見つけるためにさまよった果て、
いきつく先はどこなんだろう?

結局のところそれは、
子育ての超基本、
素朴な大前提なのだと、
先日、ある人に気づかせてもらった。

たとえば、「子どもが育つ力を信じる」ということ。

ときとして、自分だけ、わが子だけ、わが家だけが
特殊な状況にあるような錯覚を起こすことがあるが、
それぞれの家庭にそれぞれの事情があったとしても、
それぞれの家庭で大切なことは、
すべての家庭に共通なことなのかもしれない。

ということに気づかせてもらえて、
ハっとしたし、うれしかった。

もしかすると「子どもの育つ力を信じる」ということと、
「自分自身を信じる」ということは、
どこかでつながっているのかもしれない。


新しい妖精

娘「今度のプリキュアの妖精の名前知ってる?」

私「え、知らない。何?」

娘「シプレとコフレだよ。」


 
  ・・・シュプレヒコール? ちがうちがう


シプレはたぶん香水関係の言葉らしく、
コフレは宝石や化粧品を入れる小箱のことらしい。(推測)


遠い。私の人生から遠い。


ソチのときには

ここのところ、私と姉との会話において、
フィギュアスケートの話題がけっこう熱かった。

試合本番のみならず、選手の背景にも興味のある姉が、
雑誌や新聞や真央ちゃんの本を買って、貸してくれる。

私はといえばこのご時世に、
トリノとかグランプリシリーズとか
世界選手権とかビデオテープにおさめていて、
けっこうな数になって場所をとっていたので、
このあいだ姉に頼んでディスクに落としてもらったら、
3枚におさまって感動した。

で、何しろフィギュアスケートの応援をしていると、
緊張度もはげしいし(なぜ私が??)
なんだかんだでヘトヘトになるので、
「バンクーバーが終わったら引退するよ…」
とかわけのわからないことを言っていたのだった。

がしかし、このあいだまた大いにフィギュアの話で盛り上がって、
「やっぱ、ソチまでがんばろうかなぁ…」
とこれまたわけのわからないことを言ったあと、
「ソチのときには○○ちゃんは…」
と娘の学年を計算してみてちょっと驚いた。

……小学校6年生じゃん。

次の冬季オリンピックのときにもまだ小学生??

小学生時代って長いねぇ〜〜

ちょうどその時期は、卒業間近のころ。

どういう心持ちでいるのか、まったく想像がつかない。

人生って意外と長いってことなんだろうか。
それとも4年間って意外と短いってことなんだろうか。

ふと、トリノの頃を思い出してみる。

あの頃は、人生のけっこう大きな節目の時期だった。

あれからいろいろあったといえばあったけれど
長かったのか短かったのか…


4分間も4年間も、長くてあっという間なのかもしれないなぁ。


でも、その「長くてあっという間」さ加減が、
4分間と4年間でも違うし、
人によっても違うんだろうな…




「子を持って知る子の恩」

『<心配性>の心理学』(根本橘夫著)という本を
図書館から借りて読んでいる。

「〜の心理学」というタイトルはあまり気が向かないが、
「心配症(性)」という言葉がつく本が読みたかったので。
「不安神経症」などではなく、心配症(性)であるのがミソ。

で、冒頭部分に、心配性は心配「症」ではなく心配「性」
という話があり、ここからすでに納得してしまった。

前から熱心に読んでいるわけではなく部分読みなので、
全体を読むとまた印象が変わるかもしれないが、
読むべきところがたくさんあると思い、
貸出延長の手続きをした。
(っていうか、借りたのにあまり読んでなかったのね^^;
 無事延長できたので、次に予約している人もいなかったみたい)

著者は、教育心理学を専門とされている方のよう。
なので、子どもの話、たとえば「しつけがつくる心配性」
というような項目もある。

子育ての参考ではなく、自分のために借りた本だったのだが、
いろいろと考えさせられる。

その中で、「ああ、ここを読めてよかったなぁ…」
と思う記述に出会った。

「子を持って知る親の恩」ということわざほど、親のエゴが表現されている言葉はないように私には思われます。「親がどんなにか子どものことを思い、子どものために犠牲を払っているか、親になってみなければ分かりません」と言われれば、子どもは黙ってこうべを垂れるしかありませんから。しかし、よほど未熟な親を除いて、親は知っているはずです。親が子どもから与えられるものが、どれほど大きいものであるかを。ただ子どもが存在してくれることが、どれほど親の人生に豊かさをもたらすものかを。
「子を持って知る子の恩」こそ、よりふさわしいことわざだと思われます。
たとえ呆けたとしても、
このことだけは忘れないでいたい。


補足>エリン

ネットで調べて、とりあえずわかって、よかった。
といっても、アニメ版で実際にどういう設定なのかは不明。
何がわかったかというと、原作ではどうなっているかということと、
イアルとキリクの区別がつくようになったということ(^^;や、
その他もろもろ…


エリンのことを書く気になったのは(ネタバレあり)

娘にきのうのエントリを読み聞かせ(?)して、
その勢いで、『獣の奏者エリン』についての
気になりごとをネットで調べてみた。

その気になりごととは、
最終回のラストシーンで出てくる
エリンの子どものジェシ?のおとうさん、
つまりエリンの夫はだれなのか、ということ。

ストーリーの流れとしてはイアルのような気がするけれど、
最終回のラストシーンの画面の流れとしては、
旅の医術師のあの人だと思えないでもない。
あの人はイアルではなかろう?

で、実は私は、
最後までイアルとキリクの区別がつかなかったのだ。(^^;
白状してしまうと
途中ではシュナンの区別もついていなかった。(^^;;;
立場ぜんっぜん違うだろうに。
ちなみに、リランのことをずっとディランだと思っていた。

ごはん作りながら耳だけできいてたり、
見たり見なかったりだったからねぇ…(←言い訳)
特にキリクの印象がほとんどない。

ネットで調べて、とりあえずわかって(>補足)、よかった。
ので、ブログに書く気になったのであった。

なお、『獣の奏者エリン』の中で、
個人的にいちばん印象深かった場面は、
エリンのおかあさんが、
最後の夜に、何かに漬け込んだお肉の料理をするところ。

私だったらどうしていたかなぁ、あの夜…

ちなみに、バルサ姐さんがカッコイイ
精霊の守り人』も好きだった。
こちらも上橋菜穂子さんの原作なのですね。


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