芦田宏直「キャリア教育の諸問題について」(2)/大学における「キャリア教育」の行方と、初等教育のことを少し
( 芦田宏直著/ロゼッタストーン/2013年)の

「第8章 キャリア教育の諸問題について
     ------学校教育におけるキャリア教育とは何か
        (ハイパー・メリトクラシー教育批判)」

を読んでいる。



何しろ娘は中学生になったばかりなので、
保護者としてリアルに考えられるのは
せいぜい高校進学くらいまでの話なのだが、
この本を読んでいると、
がぜん大学のことが気になってくる。

しかし自分が大学を卒業してざっくり30年。
しかも、たったひとつの大学の
たったひとつの学部しか知らないのだから
自分の経験をもとに「大学ってこんなところ」
と考えてはいけないのだと
しみじみ思うきょうこのごろ。

思えば「キャリア教育ってなんだか不安…」と感じても、
やはり小学校でなされることは
いい意味でたかがしれていて、
小学校の先生の話からもわかるように
とりあえず上からミッションでやらされる、
そういうものになっているのかもしれない。

しかし大学や専門学校はいよいよ就職が目の前だから、
そうはいかない。

なんでも、キャリア教育に特化した
大学、短大につぐ第三の高等教育機関が
つくられようとしているのだとか。
http://sukkiri.artet.net/?eid=1407735

 ちなみに上記記事の最後で、
 第8章からいちばん抜き出したかった部分を
 すでに引用済みなので、
 よろしかったらそちらも読んでください。

芦田さんは、とあるエピソードを紹介したのち、
大学において全学で共通する教育目標を揚げると、
必ず「コミュニケーション能力、課題発見・問題解決能力、
分析力、IT力」などということになる、
と指摘している。抽象的な目標になる、と。

なぜそういうことになるかというと、
こういう抽象的な教育目標は
各学部の講座の内容を
まったくいじらなくてすむものだから。

学部の教授たちは、
こういった教育目標に反対しない。
教授会ではすんなりと通過する。
なぜかというと、
自分のシラバスを変える必要がないから。

それらは非常勤の外注教員がやってきて
オプショナル科目の中で消化されるか、
一教員のシラバスを変えるだけのこと。

全体のシラバスが変わるとしても
シラバス″書式”が変わるだけであって、
授業が具体的に改善されるわけではない。

ふむ。

で、一度大学の話からはなれて思い出したことを書くと、
第7章の感想を綴っている数学教育ブログで
私はこんなことを書いた。
http://math.artet.net/?eid=1422150
しかし、高校卒業時、あるいは中学卒業時に、進路に関わらずすべての生徒に共通した「目標」とはなんなのか。いま実際に設定されている「目標」は「目標」たりえているのか。それを考えていくと、なかなか難しいものがあるなぁ、という気持ちになってきます。

大学の全学で共通する教育目標を掲げると、
○○力(りょく)のオンパレードになるのだとしたら、
中学卒業時あるいは高校卒業時の目標は
まさにこういうものになってしかるべき、
ということになりますよね。

そうなると、芦田さんと『学び合い』をめぐって
意見が対立している(と私が認識するところの)
西川純さんが、以下のような発言をされるのも
(同意はできないけど)理解はできる。↓
理解はできるけど私はそうは思っていなくて、
そして、芦田さんとも少し考え方が違っていると思う。

私は、初等教育でも「学問」はできるのではないか、
と考えている。

というか、それをやらなかったら「学校」の意味がない、と。

「学問」とは「知識」を教え込まれることではないだろう。

先人達がやってきたことをでき得るかぎり受けとめて、
そこから自分が一歩進ませ(あるいは自分のものとし)、
それを他の人たちにも渡していく、
それが「学問」だと私は思っている。
(違ってたらごめんなさいね〜>「学問」の専門家)

つまり、「学問」とは「つくる」ことだ、と。

この話は長くなるのでまたの機会にして次に進むと、
芦田さんはとある論文(レポート)の
「感想」の形で話をすすめているが、

 要するに、意見調整できない、本格的なカリキュラム改革に手をつけられない、かつ誰もが反対しないが誰もやる気のない教育目標が「コミュニケーション能力、課題発見・問題解決能力、分析力、IT力」「21世紀の課題の解決に対し挑戦し、行動する人材教育」なのである。

(p.253)

ということらしいのだ。

ため息が出ます。

そして、なぜ大学は、キャリア教育、
人材目標を棚に上げたいのか、
ということについて、
とてもわかりやすいシンプルな答えが示してある。

それは先生たちが就職に興味がないからである。

(p.254)

なるほど〜。

大学の「就職」指導とは、大学院進学でしかない。

確かに。

あと、かねてから思っていたことなのだけれど…

高校までの先生は
「教育」という仕事に従事していることが
はっきりしていると思うのだが、
大学の先生って、
「研究者」であると同時に
「教育者」なんですよね。

そのどちらのウェイトが高いんだろう?
なんて考えることがある。

基本的には「研究」だけで食っていけたら
こんなにいいことはないと思ってるんじゃなかろうかと
勝手に(ほんとに勝手にですスミマセン)想像している。

「教育」するにしても、
大学院以降の少数の研究者の卵に指導するならいざしらず、
学部生へのマス教育がやりたくてしかたなくて
大学の先生をやっている人たちって存在するのかな?

その点、教育学部は、教育することを研究し、
教育するところを教育するという
面白いところではある。

が、折にふれ大学の先生たちの考えに接触するたびに、
こういう思いにかられる私。↓
とにもかくにも、芦田さんのこの指摘には なるほどなぁと思わずにはいられない。↓
 大学の先生のマインドは、ほとんどが大学院研究室の師弟マインドで満たされているのだろうから、“外”に出る学生の企業就職など意識できるはずがない。専門学校と違って、大学の教員は企業側に向かって相対的な独立性を有している。そのことこそが大学の矜恃というものだ。そんな大学で「キャリア教育」を担えるはずがないではないか。
(p.254〜255)

だから大学でそういうことするくらいなら、
いっそ別の学校を作って、ビジネス界の人呼んできて、
レクチャーしてもらったほうがいい…ということに
なったりするんだろうか?

そうすると、「第三の高等教育機関」も
あながちない話ではない、
ということになってしまうのだろうか?

今日の大学全入時代においては、
「研究から教育への転換」というのが
大きなスローガンになっているとのこと。

このことの意味は、キャリア教育=就職指導を
教授たちのコアの科目で担いなさいということ。

つまり、このスローガンの意味は、
もはや就職指導は「就職センター」の仕事ではなく、
教務の仕事であるということを示している。

しかし、それをわかっている大学関係者は少ない、
と芦田さんは言う。
「教育」を「教授法」程度の意味でしか
考えていない、と。

文部科学省は「教育研究」といい、
「人材教育」と言っている。
「人材教育」とは就職指導と同じ。

もはや「人材教育」とは
大学院進学とは何の関係もない社会人教育、
つまり実務家教育でしかない。

それが大学全入時代の大学に求められているのだけれど、
混迷を続けている、と芦田さんは指摘する。

(つづく)
 2014.06.10 Tuesday 10:43 キャリア教育の諸問題について permalink