芦田宏直「キャリア教育の諸問題について」(3)/専門的な知識とは商品知識ではないということ

『努力する人間になってはいけない―学校と仕事と社会の新人論』
( 芦田宏直著/ロゼッタストーン/2013年)の

「第8章 キャリア教育の諸問題について
     ------学校教育におけるキャリア教育とは何か
        (ハイパー・メリトクラシー教育批判)」

を読んでいる。

第8章についてはこれで一区切り。



芦田さんは、
かつて専門学校の校長をなさっていたこともあり、
いまも別の専門学校の顧問を務めておられるようなので、
この本には専門学校の話もよく出てくる。

そのなかでなるほどなぁと思ったのが
靴のデザインの話だった。

芦田さんが、工芸学科を持つ専門学校の科長と
話をする機会があったときに
特に靴のデザイン、カバンのデザインを行う
コースの実習を見学させてもらったそうなのだが、
そのときに「大学に負けるところはどこですか」と聞いたら、
専門学校では「運動靴のデザインができない」と
お話しされたのだそう。(p.261)

なぜかというと、
足の生理学についての授業が
専門学校では無理だから。

100メートルをコンマ何秒の単位で
速く走らなければいけないときの靴の造形は、
造形の主観的な美だけでは済まない「知識」を要求される。

同じように、「メイクや肌の手入れ」
「動物に関する幅広い知識」
「食事や入浴などの介護技術」も
心理的な(顧客の)満足や
コミュニケーション能力に解消されない
「知識」(の質)を要求されている、と。

実際、調理分野と理美容分野の専門学校留学生は
卒業後日本国内で就職ができないのだそう。

どちらも資格職ではあるけれど、
入管的には「技能」職、
つまり体系だった知識の不必要な「経験」職と見なされ、
「技術」職とは見なされていないのだとか。

ほんでもって、生活ブログのほうで
自分が卒業した大学の現在のシラバスを確認したら
コミュニケーション祭りで驚いた話を書いたが、
専門学校でも「コミュニケーション能力」育成という
テーマが流行っているらしい。

なんでも厚生労働省が2004年に11,255社に対して実施した、
企業が若年者に求めている就職基礎能力調査の結果を見ても、
(回収率は13.1%だそう、約1470社ですね)
高校卒業レベル、大学卒業レベルどちらでも
「コミュニケーション能力」を上げた企業は
85%を超えており、トップの要求をなしているそう。

この調査結果が、
「YES-プログラム」(若年者就職基礎能力支援事業)
http://www.mhlw.go.jp/general/seido/syokunou/yes/01.html
に結実したということらしい。

ちなみにH21年度に終了したもよう。
http://www.mhlw.go.jp/bunya/nouryoku/yes/

その中身をのぞいて思いました私。

これはやはり、あの部分をもう一度引用しておかねばなるまい、と。↓
 この種の〈力(ルビ:りょく)〉能力の特性の一つ一つは、学校教育(=若者)に特有な課題ではないということだ。「若年者」を離れれば、大概の大人は「コミュニケーション能力」を身につけているというのか。そんなことはあり得ない。世の中の組織の会議(民間であれ、官庁であれ)で、まともな議事が進行する会議がいくつあるというのか。ほとんどの場合は、「コミュニケーション」不全状態でしかない。大人の自分たちでさえコントロールできない「コミュニケーション」を、なぜ「若年者」に特有な課題(あるいは学校教育に特有な課題)であるようにでっちあげるのか。私にはそのセンスがわからない。その場合にでも、そもそも現場(=社会人の現場)にその種のコミュニケーション能力が不足しているのは、学校教育におけるコミュニケーション能力育成の不在にあるとでも言うのだろうか。
(p.257〜258)

何度も言うけど、まったくだ。

話かわりますけど、
西條剛央『構造構成主義とは何か−次世代人間科学の原理−』
(北大路書房/2005年)
を手にしたばかりの私の第一印象は、
「研究者の世界ってめんどくせぇ、つきあいきれん」
というものだった。
(その後、印象が大きく変わりました。
 というか、だからこそ!と思いました。)

現場のコミュニケーション能力不足は、
学校教育のせいにしないで
現場で解決していただきたいものだ。

とにもかくにも、
このような〈力〉(りょく)ばやりは、
厚労省に限ったことではなく、
2003年の「人間力」(内閣府)、
2006年の「社会人基礎力」(経産省)、
2007年の「学士力」(文科省)と、
他省も〈力〉(りょく)のオンパレード。

  ひょっとすると文科省の「生きる力」も
  「いきるりょく」だったのか!?(^m^)

芦田さんは、このような〈力〉教育の
反対語は何だろうと考えたとき、
それは「専門教育」に他ならない、と言う。

たとえば生活ブログのほうで、
トヨタは車好きを採用したがらない話を書いたが(>)、
車に関連させていうならば、
車のことについてよく知っている人が、
必ずしも車をよく売るとは限らない。

また、車の営業マンが車を「知る」ということは、
車のメーカーや整備士が車を「知る」ということとは
まったく別の意味でのこと。

専門的な知識とは商品知識のことではなく、
接遇の″技術”を会得するようにして
獲得できるものではない。

営業に〈知識〉が必要である度合いは、
人間性(=人柄)が重要、
話し上手であることが必要という度合いと
ほとんど変わらない。
その意味で営業にとって、
〈知識〉は単なる道具にすぎない。

しかし、「メイクや肌の手入れ」
「動物に関する幅広い知識」
「食事や入浴などの介護技術」
にとっての知識は
人間性と代替される道具ではない。

それらは、「専門的な知識」がないと
対象に関われない領域を有している。
知識は相対的な道具ではなくて
対象そのものに関わっている。

「肌」「動物」「生体」などについての
科学的な(=反経験的な)知識なしには、
それらと関わることは困難。

このような知識は、
人柄がいい、笑顔がいい、マナーがいい、
話がうまい、説得力がある
などということとはまったく独立に
獲得されなければ得られない質が存在している。

とにもかくにもキャリア教育は
「○○力」で示されるような
〈力〉(りょく)教育の掃きだめになっている、
と芦田さんは指摘する。

具体的な人材教育に定位している専門学校で
そのような〈力〉教育が必要だとされるのは、
大学教育とは別の意味で
専門教育ができないということを
露呈しているだけだ、と。

それは、専門学校が担う「専門性」が
カリキュラムにおいても教材開発においても
教員の質においても貧困だということ。

〈高等教育〉に耐える職業教育の道のりは
まだまだ遠いと言わざるを得ない、
と芦田さんは第8章をしめくくっておられる。


  さて。

  娘。

  どうするよ・・・


というわけで、この本の第8章についてはここで一区切りです。

トークセッションの感想は、
たぶん数学教育ブログのほうで書きます。


芦田宏直「キャリア教育の諸問題について」(2)/大学における「キャリア教育」の行方と、初等教育のことを少し

( 芦田宏直著/ロゼッタストーン/2013年)の

「第8章 キャリア教育の諸問題について
     ------学校教育におけるキャリア教育とは何か
        (ハイパー・メリトクラシー教育批判)」

を読んでいる。



何しろ娘は中学生になったばかりなので、
保護者としてリアルに考えられるのは
せいぜい高校進学くらいまでの話なのだが、
この本を読んでいると、
がぜん大学のことが気になってくる。

しかし自分が大学を卒業してざっくり30年。
しかも、たったひとつの大学の
たったひとつの学部しか知らないのだから
自分の経験をもとに「大学ってこんなところ」
と考えてはいけないのだと
しみじみ思うきょうこのごろ。

思えば「キャリア教育ってなんだか不安…」と感じても、
やはり小学校でなされることは
いい意味でたかがしれていて、
小学校の先生の話からもわかるように
とりあえず上からミッションでやらされる、
そういうものになっているのかもしれない。

しかし大学や専門学校はいよいよ就職が目の前だから、
そうはいかない。

なんでも、キャリア教育に特化した
大学、短大につぐ第三の高等教育機関が
つくられようとしているのだとか。
http://sukkiri.artet.net/?eid=1407735

 ちなみに上記記事の最後で、
 第8章からいちばん抜き出したかった部分を
 すでに引用済みなので、
 よろしかったらそちらも読んでください。

芦田さんは、とあるエピソードを紹介したのち、
大学において全学で共通する教育目標を揚げると、
必ず「コミュニケーション能力、課題発見・問題解決能力、
分析力、IT力」などということになる、
と指摘している。抽象的な目標になる、と。

なぜそういうことになるかというと、
こういう抽象的な教育目標は
各学部の講座の内容を
まったくいじらなくてすむものだから。

学部の教授たちは、
こういった教育目標に反対しない。
教授会ではすんなりと通過する。
なぜかというと、
自分のシラバスを変える必要がないから。

それらは非常勤の外注教員がやってきて
オプショナル科目の中で消化されるか、
一教員のシラバスを変えるだけのこと。

全体のシラバスが変わるとしても
シラバス″書式”が変わるだけであって、
授業が具体的に改善されるわけではない。

ふむ。

で、一度大学の話からはなれて思い出したことを書くと、
第7章の感想を綴っている数学教育ブログで
私はこんなことを書いた。
http://math.artet.net/?eid=1422150
しかし、高校卒業時、あるいは中学卒業時に、進路に関わらずすべての生徒に共通した「目標」とはなんなのか。いま実際に設定されている「目標」は「目標」たりえているのか。それを考えていくと、なかなか難しいものがあるなぁ、という気持ちになってきます。

大学の全学で共通する教育目標を掲げると、
○○力(りょく)のオンパレードになるのだとしたら、
中学卒業時あるいは高校卒業時の目標は
まさにこういうものになってしかるべき、
ということになりますよね。

そうなると、芦田さんと『学び合い』をめぐって
意見が対立している(と私が認識するところの)
西川純さんが、以下のような発言をされるのも
(同意はできないけど)理解はできる。↓
理解はできるけど私はそうは思っていなくて、
そして、芦田さんとも少し考え方が違っていると思う。

私は、初等教育でも「学問」はできるのではないか、
と考えている。

というか、それをやらなかったら「学校」の意味がない、と。

「学問」とは「知識」を教え込まれることではないだろう。

先人達がやってきたことをでき得るかぎり受けとめて、
そこから自分が一歩進ませ(あるいは自分のものとし)、
それを他の人たちにも渡していく、
それが「学問」だと私は思っている。
(違ってたらごめんなさいね〜>「学問」の専門家)

つまり、「学問」とは「つくる」ことだ、と。

この話は長くなるのでまたの機会にして次に進むと、
芦田さんはとある論文(レポート)の
「感想」の形で話をすすめているが、

 要するに、意見調整できない、本格的なカリキュラム改革に手をつけられない、かつ誰もが反対しないが誰もやる気のない教育目標が「コミュニケーション能力、課題発見・問題解決能力、分析力、IT力」「21世紀の課題の解決に対し挑戦し、行動する人材教育」なのである。

(p.253)

ということらしいのだ。

ため息が出ます。

そして、なぜ大学は、キャリア教育、
人材目標を棚に上げたいのか、
ということについて、
とてもわかりやすいシンプルな答えが示してある。

それは先生たちが就職に興味がないからである。

(p.254)

なるほど〜。

大学の「就職」指導とは、大学院進学でしかない。

確かに。

あと、かねてから思っていたことなのだけれど…

高校までの先生は
「教育」という仕事に従事していることが
はっきりしていると思うのだが、
大学の先生って、
「研究者」であると同時に
「教育者」なんですよね。

そのどちらのウェイトが高いんだろう?
なんて考えることがある。

基本的には「研究」だけで食っていけたら
こんなにいいことはないと思ってるんじゃなかろうかと
勝手に(ほんとに勝手にですスミマセン)想像している。

「教育」するにしても、
大学院以降の少数の研究者の卵に指導するならいざしらず、
学部生へのマス教育がやりたくてしかたなくて
大学の先生をやっている人たちって存在するのかな?

その点、教育学部は、教育することを研究し、
教育するところを教育するという
面白いところではある。

が、折にふれ大学の先生たちの考えに接触するたびに、
こういう思いにかられる私。↓
とにもかくにも、芦田さんのこの指摘には なるほどなぁと思わずにはいられない。↓
 大学の先生のマインドは、ほとんどが大学院研究室の師弟マインドで満たされているのだろうから、“外”に出る学生の企業就職など意識できるはずがない。専門学校と違って、大学の教員は企業側に向かって相対的な独立性を有している。そのことこそが大学の矜恃というものだ。そんな大学で「キャリア教育」を担えるはずがないではないか。
(p.254〜255)

だから大学でそういうことするくらいなら、
いっそ別の学校を作って、ビジネス界の人呼んできて、
レクチャーしてもらったほうがいい…ということに
なったりするんだろうか?

そうすると、「第三の高等教育機関」も
あながちない話ではない、
ということになってしまうのだろうか?

今日の大学全入時代においては、
「研究から教育への転換」というのが
大きなスローガンになっているとのこと。

このことの意味は、キャリア教育=就職指導を
教授たちのコアの科目で担いなさいということ。

つまり、このスローガンの意味は、
もはや就職指導は「就職センター」の仕事ではなく、
教務の仕事であるということを示している。

しかし、それをわかっている大学関係者は少ない、
と芦田さんは言う。
「教育」を「教授法」程度の意味でしか
考えていない、と。

文部科学省は「教育研究」といい、
「人材教育」と言っている。
「人材教育」とは就職指導と同じ。

もはや「人材教育」とは
大学院進学とは何の関係もない社会人教育、
つまり実務家教育でしかない。

それが大学全入時代の大学に求められているのだけれど、
混迷を続けている、と芦田さんは指摘する。

(つづく)


芦田宏直「キャリア教育の諸問題について」(1)/接遇教育は専門教育の衰退を加速させる

というわけで、
『努力する人間になってはいけない―学校と仕事と社会の新人論』
( 芦田宏直著/ロゼッタストーン/2013年)
の「第8章 キャリア教育の諸問題について
  ------学校教育におけるキャリア教育とは何か
    (ハイパー・メリトクラシー教育批判)」
を読んでいく。




キャリア教育の諸問題について、芦田さんはまず、
身近なところからこんな例を出してくる。
通っている散髪屋さんの接客の話。

「かゆいところはありませんか?」
「目や耳に水は入っていませんか?」

そんなことを客にきくのはおかしい、と。

大概の客は、「・・・せんか?」ときかれて
それを伝えたりはしない。

店員は結局のところ、
「・・・せんか?」ときくことで、
顧客に甘えている。

著者は言う。
消費者のパワーが怖いのは声を上げるからではなくて、
黙って立ち去るからだ、と。

そして、大概の接遇教育は、
このレベルのコミュニケーションに
とどまっていると指摘する。

本来の接遇は、
顧客にわざわざ聞かないですむための
接遇でなければならない。

一流のレストランと三流のレストランの違いでも、顧客にテーブル上で足りないものを意識させてわざわざ手を上げさせてしまったらもう終わりだ。フロアマネージャーがお客様のテーブルの食事進行をいつも見続けていて対応できるかどうかが一流かどうかの鍵(の一つ)を握っている。

(p.245)

私も、ときと場合によるとは思うが、
「消費者の怖さは黙って立ち去るところ」
という考え方に基本的に同意する。

クレームをつける消費者は、
お店のためを思って…というより、
自分がそうしたくてそうしていると思う。

大概は、思うところがあっても黙って立ち去り、
「もうあそには行かない」ということになると思う。

お客さんの髪を洗ったあと、
目や耳に水が残らないような「拭き取り」とは何か、
どうすればそのような「拭き取り」ができるか、
万が一拭き取れていない場合に
顧客はどんな表情やそぶりをするのか、
その判断をふまえて何をすればいいのか、
それができればわざわざ客に聞く必要はない。

したがって、「拭き取り」は接遇の対象ではなく、
専門教育の課題になる、と。

「拭き取り」という作業(スキル)を、どの程度の解像度(初級・中級・上級「拭き取り」)を持って教えているかという専門性そのものの課題だ。

(p.246)

  この「初級・中級・上級」の話は
  第1章から出てくる。
  コピーをとるにも初級・中級・上級がある、
  というふうに。

著者いわく、接遇教育やコミュニケーション「スキル」教育は、
こういった専門教育の衰退を加速させているだけだ、と。

 あらゆるスキルやコミュニケーションは、専門性の研鑽と薫陶の結果出てくるものにすぎない。インプット(ストック)のないアウトプット(コミュニケーション)は存在しない。

(p.247)

なるほどねぇと思った。

すごく簡単に言うと、
「客に聞く前に、観察しろ、判断しろ、考えろ、行動しろ」
ということになるのだろうし、
そうできるようになるために
「学べ」
ということになろうかと思う。

そして私はあることを思い出した。

私は(かれこれ30年前)学校教育学部の
小学校教員養成課程に所属していたのだけれど、
大学の3〜4年生頃、
「教えるものと教え方は分離できない」
ことに気づき、
そのことに気づいたことで
教えるものと教え方は分離できると自分は思っていた、
ことに気づいた。

〔関連記事〕
http://math.artet.net/?eid=1421497
http://kodomo.artet.net/?eid=1228845

教育実習の影響もあったと思うが、
当時演劇サークルに入っていたので
その影響が大きかったような気がする。
すなわち、「伝えることと伝え方は分離できない」と。

私はそれまで教師というのは
「教える」のが仕事だと思っていた。
だから、「教え方」に心を砕くのが本分だ、と。

それは裏を返せば、
「教えること」は決まっている、
と思っていたことになるともいえる。

あるいは、教えることは与えられる、と。

考えようによっては、学習指導要領や教科書によって
「教えること」が与えられるといえば与えられる。
また、かけ算も分数も、自分が生み出したものじゃない。
そういう意味では「与えられたもの」だ。

しかし、どう教えるかということは、
何を教えるかということであり、
「教えること」の内容への
深い洞察なしにはあり得ない。

現在の小学校現場の算数で起こっている妙なことは、
ほとんどの場合、ここの部分の取り違えから
発生していることなのではなかろうか。

すなわち「どう教えるか」に心を砕きすぎるあまり、
「何を教えているか」がわからなくなっていく。
あるいは、教えているその「何か」に対しての
洞察を深めようとしない。
または、(小学校教師は)自分はそこに
立ち入れないと思っている。

だから、いろいろと「くふう」をしようとする。
わかりやすくしてあげよう、
解けるようにしてあげよう、と心を砕く。

「かけ算とは何か」ではなく、
「かけ算をどう教えるか」を考えることに時間をかける。

「割合とは何か」ではなく、
「どうやったら子どもたちは割合の問題を解けるようになるか」
を考えることに時間をかける。

そのうちに、なんだかよくわからないことになっていく。

教員に関していえば、その「スキル」も
専門性といえば専門性なのかもしれない。

また、私のこの発想を短絡的に考えると、
教員養成系大学は、
「かけ算とは何か」「割合とは何か」を教えるところ
ということになってしまうかもしれない。
(本来は、教える"何か”の洞察を深めるスキルが
 その専門性になるとは思うのだが、自分でも保留)

そういうふうに考えていくと、
教員養成系の学部は、
いったい何を教えるべきなんだろう、
どういう場所であるべきなんだろう
という疑問もわいてくる。

何しろ教育系学部は
教育することを教育するという面白い場所なので。
大学と小学校・中学校の違いはあっても。

とまあ、そのあたりの問題意識は
いったんわきにおいといて、
先を読み進めていきたい。

(つづく)


キャリア教育って何だろう?

これからしばらくの間、
『努力する人間になってはいけない―学校と仕事と社会の新人論』
( 芦田宏直著/ロゼッタストーン/2013年)
の「第8章 キャリア教育の諸問題について
  ------学校教育におけるキャリア教育とは何か
    (ハイパー・メリトクラシー教育批判)」
を読んでいこうと思うのだけれど、
その前に、キャリア教育って何?ということについて
ちょっと書いておきたい。

なお、芦田さんは専門学校の校長先生をやっていたこともある方で、
特に高等教育においてのキャリア教育について議論されているが、
私はやはり、小学校、中学校におけるキャリア教育のことが気になる。

おそらくキャリア教育の諸問題は、
小学校、中学校教育に与える影響よりも、
高等教育に与える影響のほうが深刻だろう。

しかし、小・中学校も無関係ではないし、
小・中学校には小・中学校の問題点があると思う。

そしてそのことは、
学校教育制度の根本的な問題につながる話だと思う。

さて、まずは文科省が示している
「キャリア教育」についての説明を読んでみる。
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/career/
 
今、子どもたちには、将来、社会的・職業的に自立し、社会の中で自分の役割を果たしながら、自分らしい生き方を実現するための力が求められています。

この視点に立って日々の教育活動を展開することこそが、キャリア教育の実践の姿です。

学校の特色や地域の実情を踏まえつつ、子どもたちの発達の段階にふさわしいキャリア教育をそれぞれの学校で推進・充実させましょう。

もっと詳しい説明については、こちらをどうぞ↓
http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/
__icsFiles/afieldfile/2011/06/16/1306818_04.pdf


私が「キャリア教育」という言葉を
知ったばかりのころに思ったのは、
これはいわゆる職業教育なの?違うの?
ということだった。

保菌者のキャリアではないとしても
まさかキャリア官僚のキャリアでもあるまい、
では、いわゆる「キャリアが長い」のキャリア、
経験を積ませる教育という意味なのかなんなのか、
ということ。

でも、上記の文言を見ると、
簡単に言えば職業教育ですよね。

実際に娘が受けている教育をみても、
最初は「自分のいいところを発見する」といったような
よくわからない内容の授業だったが
結局は「就職意識強化教育」なんだな、
という印象を(私が)もって、娘は小学校を卒業した。

じゃあ、職業教育といえばいいのに、と思う。

そして、習熟度別学習について調べていたときに
ある小学校の先生のブログを見つけて、
そこにあった次の言葉に、
なるほどねぇ、さもありさん、
としみじみ思った。
http://kazemanabi.at.webry.info/201203/article_4.html
 
で,その学校での「補充的・発展的学習」の積極的な取り組みは3年間続いたんだけど,その後「キャリア教育の視点を取り入れる」っていう新たなミッションが「上」からやってきたので,そっちが主体になり,なんとなく部分的な取り組みになり…現在も実施されているのかどうか,定かではありません。(たぶんやってないと思う。)

結局、なんたら教育って、
なにかにつけ「上」からのミッションなんでしょうね。

なお、上記の先生は、
キャリア教育についても語っておられる。↓

まなびのへやANNEX
その223 「キャリア教育」ってやつ
その224 「キャリア教育」ってやつ〜ちょっと横道に〜
その225 「キャリア教育」ってやつ〜どんな力をつけたいの?〜
その226 「キャリア教育」を語る前に

ちなみに、そんな学校状況のなか、わが家では、
「いまの最先端は“ニート道”だよ」
ということになっている↓
http://kodomo.artet.net/?eid=1228991

これから著書を読んでいこうとしている芦田宏直さんが、
本間正人さんという方とトークセッションを行っていて、
その最後の質疑応答において、
キャリアコンサルタントの方が
次のような質問を投げる場面があった。
https://www.youtube.com/watch?v=k4X9uJCeUws

「たとえば20社受けて、
 全部すべっちゃったという学生が
 先生のところに相談にきたときに
 先生はどういう対応をするか。
 あるいは上司との人間関係がまずくてやめちゃった
 というような学生にどういう対応をするか。」

芦田さんの答えは
「もう一度学校で一から勉強しなおせ、
 社会に出るなと言う」
というもの。

キャリアコンサルタントの方は
自分たちの仕事は違っていて、
「20社受けた学生に、よくがんばったな
 とその努力を認めてあげ、自信をもたせて、
 あらたな可能性を見つけ(させ)ること」
ということをやる、とおっしゃっている。

芦田さんに「それをやるからだめなんだ」
と否定されていて、
最後には社会的犯罪とまで言われていて、
コンサルタントの方、お気の毒だなぁとは思ったが、
大筋で芦田さんに共感する。

そして、ここで芦田さんが
キャリアコンサルタントの方に
実際にやっているように、
キャリアコンサルタントは学生に対して、
伝えるべきことをはっきりとシンプルに、
そして強い姿勢で伝えないと
相手は考えようとしないだろうな、と思う。

ちなみに私なら、そういう学生さんに
pha著『ニートの歩き方』を渡して、
とりあえずこれ読んでごらん、
と言うと思う。

それは「ニート」をすすめる意味ではなくて、
(たぶん20社落ちた学生はニートではやっていけない)
自分はどうにもこうにも就職しないとヤバイ、
就職して会社で働いて生きていくしかない、
という意識を高めさせるため。
そうしたら何とかしなくちゃと思うだろう。

これまで小学校教育について考えることが多かったが、
娘も中学生になり、将来のことを考えることもあり、
そろそろ高等教育についても考えていかなくちゃな…
と思うきょうこのごろ。

それは保護者としてどうふるまうべきか、
いま娘に何ができるのか、何をすべきでないのか、
ということを考えるためでもあるのだろうけど、
なんだか自分自身が自分自身のために考えたい、
という部分もある。
というか、考えずにはいられないというか。

上記リンク先の小学校の先生が、
キャリア教育についての最後のページで、
こう語っておられる。
なんか,不安なんですよ。
このところの「教育改革」への流れや「教育に求められるもの」をみていると

私も、キャリア教育をはじめとする
「教育に求められるもの」が、
なんだか不安なのだと思う。

なんというのか、
学校で学ぶということができなくなるのではないか…
という不安なのかもしれない。

あとですね、
最初にリンクした文科省の文言、
あるいは文書が有している問題点と
現場の問題点とは、
別物だと思います。たぶん。


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