学年末テストで自分で選択肢をつくるやつ

学年末テスト中のある日。

学校から帰ってきた娘いわく
「自分の思う答えがなかったから、
 選択肢つくっちゃったよ〜」

・・・・・。

あいかわらず出題者の存在を無視する人がここに約1名。

どうやらそういうことになった背景に、
私が一枚かんでいるらしい。

というのも、1、2学期のテストの結果と
ここ最近の様子を見て、
さすがにこれは少しフォローしておいたほうがいいだろうと、
一部の教科をいっしょに勉強したのだ。

その内容が出題されたのはよかったのだけれど・・・

空欄をうめる形式で問題が出されており、
答えが複数考えられるので、
先生は1つにしぼるために
語群をあたえたのだと思うのだ。

しかし娘は、私と勉強したことで、
別の言葉の印象が強く頭に残っていたらしく、
どうしてもそれを答えたくて、
語群になかったにもかかわらず、
その答えを書いたらしい。

もちろん、×。

さて、ここで過去をふりかえってみましょう。
 
角度全滅事件↓
http://kodomo.artet.net/?eid=1228772

小さい順じゃなかった事件↓
http://kodomo.artet.net/?eid=1228863

問題よく読め事件↓
http://kodomo.artet.net/?eid=1228969

何かが基本的に変わってない。

本人的には「小さい順じゃなかった事件」が
気に入っているらしい。

いや、だからそういうことじゃなくて…





すっかり更新が途絶えていたこのブログ、
わが家では「閑古鳥」と呼ばれていた。

「ねぇ、閑古鳥どうする〜?」と言えば、
「ねえ、"こどものちかく”どうする〜?」の意味。

で、さすがにそろそろ更新しようと思って、
最初は違う話題を書いてたのだが、
この一件を思い出し、話題を変えたしだい。

「やっぱり、こういう明るい話題がいいねぇ〜!」
と、つい口走ってしまったワタシ。
一応、「明るいか!?」とは突っ込んどいたけど、
この子にしてこの親あり。

娘に、「もしかして、ネタ提供してくれてるの?」
と聞いてみたところ、

娘「ううん、ピュアな心で」

だそうです。

さいですか。


おそらく玉砕と思われるが、いい経験をしたらしい娘、はじめての期末テスト

娘が小学校1年生でテスト・デビューして早6年。

ついに「定期テスト」デビューの年齢を迎えた。
感慨深い。

というわけで、初めての期末テスト。

私、自分はもっと教育ママになるかと思ってたんだけど、
小学校ではそれほどでもなかった(特に高学年)。

さすがに中学生になると口出すかな?と思いきや、
これがさっぱり口を出す気にならない。

何しろパソコンの前で遊んでばっかりいるからねぇ。

「もう私は十分にテストをやったんだ!
 なんでもう一度テスト準備しなくちゃならんのだ〜〜」
と思っているわけではないのだが(ちょっと思ってる)、
「とりあえずまかせてみまっしょ」
と思いながら見守るともなく見守るうち、
テストが目前にせまってきた。

ちなみに、ふだんの様子から、
こりゃテスト勉強はしとらんな、
ということは感じていたので、
もう少しでテストという頃、
「絵に描いたような一夜漬けになりそうだねぇ」
とコメントすると
「漬けないよ」という返事。
どうやら生野菜でいくらしい。

誤解なきよう申し添えておきますと、
娘は日ごろからきっちり勉強するタイプではありません。
授業をきいておけば十分というような
器用さも優秀さもありません。

そしてテスト当日。

初日はいつもよりほんの少し早く目が覚めたらしく、
ほんの少し早めに学校に行ったのだが、
みんなも早めに登校していたよう。

娘「なんだかみんな楽しみにしていたみたいだよ」

いや…それは微妙にちがうんじゃないかと…
いや、そうなのかもしれませんが・・・
そうなんでしょうか…
母は中1の1学期の心理はもはや思い出せないし
想像もできませぬ。

そうしてテストが終わった。

まだ答案返ってきてないうちにあれなんですけど、
たぶん悲惨な結果だろうと覚悟しております、はい。

で、「親子してショックを受けて、
このあとがんばろうね!」と言うと、
「私、ちょっとやそっとのことじゃ
 ショックは受けないから…」
と胸をはる娘。

「小学校時代、漢字テストの居残りで
 3人のうち1人だったもん」

なんか・・・

母はテストの前に・・・

というか、テストとは別のことで・・・

なーにーかーが−不安なんですけど・・・

そして、気になる数学の手ごたえでございますが、
娘から話をきく限り、私は約40点と予想しております。

何しろ娘いわく
「のんびりやっちゃったのよねぇ〜
 時間を考えるということが頭になかった」

ああ・・・

それはだいぶ前からの懸念ではありました。

理解度はともかく、
この人は時間を気にする、
時間と戦う、
ということができない。

丸3日あたえれば、
80点くらいはとれると思うんですが。

これ(時間との戦い)は教えていくことなんでしょうか、
どうなんでしょうか。

そんなこんなでテストを終えた娘の
直後の感想は、なぜか「気持ちイイ」というもの。

ん?

終わってほっとしたということなのかな?

と思いきや、そういうことでもなく
(そういうこともあるのかもしれないが)
ある種の爽快感を味わっているもよう。

どういうこと?ときいてみると、
「秘密」だそう。

さいですか。

ちなみに、この話をブログに書くにあたり
細かいことを確認しようとしたら、
「終わったことだから」
と鬱陶しそうに言われた。
すみませんねぇ。

まあ、まだ答案も返ってきてないしね。

でも。

たぶん、終わったんじゃなくて、
何かが始まったんだな、
始めなくちゃいけないんだな、
と思う母なのであった。



その後、返ってきました答案。

生野菜、伸び代、ありまぁぁぁす。号泣


中1娘の授業観

娘いわく。

 世の中、楽しいことは、脱線と雑談にあるよね。
 復旧したときの孤独感といったらないよ。

 


きのうの追加(「責任の所在探し」に解決を求めない道)

きのう書いた、
学校生活で苦しいことがあったとき、
こんなふうに考えてみるとどうだろうかという
新しい視点をもらった話。

という記事において、
坂口恭平さんの小学生時代のエピソードを紹介した。

あの「こっくりさん」の一件に関して、
「そもそも最初に坂口クンが
 “よくそんなもの信じられるね”と言ったことがわるい」
と思う人もいるかもしれない。

あるいは、
「だとしても、クラスの他の子どもが
 坂口クンを避けるような状況になるのはおかしい」
と思う人もいるかもしれない。

っていうか、
一晩おいてきのうの記事を読み直した自分が、
そう思ったし・・・

でも、そういう、
「だれがどれだけわるい」「何がどれだけわるい」という、
責任の所在を明らかにしようとする対応のしかたは、
意外と問題を解決しなかったり、
解消しなかったりするのではなかろうか、
こういうケースの場合。

何しろ、
「だれがどれだけわるい」
「だれのほうがよりわるい」かは、
結局のところ決めることができない。

決めるなら、「先生の判断」か「多数決」になってしまう。

あるいは、「どちらもわるい」というところに落ち着くか。

で、かりに責任の所在を明らかにできたとして、
どうすればいいのか。
責任をとってもらう? どんなふうに?

しかも、学校で起こるトラブルのほとんどは、
ディテイルで成り立っていて、
それを最初から最後まで知っているのは
たぶん当事者だけだと思う。

まわりの友だちも全部は見ていないし、
教師にはほんのほんの一部が見えているか、
あるいはまったく見えていない。

そして当事者は自分の立場からものを見るので、
同じ出来事がちがったふうに伝えられるということも
よくあるのではないかと思う。
(たとえば保護者に)

そのような「申告」をもとに、
責任の所在を明らかにしようとすると、
問題は往々にして泥沼化するのではなかろうか。

肝心なことは「責任の所在」にあるのではなく、
苦しさや辛さがどこにあるのか、
どうしたらそれをやわらげられるのか、
ということなんじゃないかと思う。

責任の所在を明らかにすることを
ゼロにはできないのが学校社会なのかもしれないが、
そうではない問題解消の道もあることを、
坂口恭平さんのエピソードは
語ってくれているように思う。

  でも、あの“公開”「こっくりさん」は
  “かけ”でしたよね〜
  三人組があの女の子の点数を知ってたら、
  坂口少年はどうしていたのだろう!?
  彼女たちにそういう関係性はないことを
  リサーチ済みだったのかな…
  うん、そのへんのぬかりはない
  少年だったような気はするな。←推測



学校生活で苦しいことがあったとき、こんなふうに考えてみるとどうだろうかという新しい視点をもらった話。

最近、坂口恭平さんという方の本を読んでいて、
その感想を生活ブログに書いている。

TATA-STYLE
カテゴリー:
坂口恭平『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』


基本的には路上生活者、いわゆるホームレスの
暮らしぶりを綴ったものなのだが、
私がこの本から受け取った最大のメッセージは、
「おわりに」の最後近くで示された次の2文だった。

 環境やシステムは何一つ変化させなくてよい。必要なのは、きみ自身の思考の解像度を上げ、無数の視点を獲得し、創造的に生きる方法を見つけることだ。
(p.180)

これは、路上生活の範囲を超えて、
幅の広い汎用性の高い方法論だと感じた。

で、たとえばということで、
私は「いじめ問題」との関連性を考えていた。

「いじめ」までいかなくとも、
学校生活のなかでの息苦しさへの対応術として。

そうしたら、たまたま、
当の坂口恭平さんが小学校5年生のときのエピソードを
語っているものをまとめたページを見つけた。

坂口恭平の世界をレイヤーでとらえイジメを無力化するやり方
http://togetter.com/li/354331

こんな話。

坂口恭平さんは、小学5年生の時に、
「こっくりさん」をやっている女の子三人組に
「よくそんなもの信じられるね。幸せな人だね」と言ったことで、
こっくりさんから呪われた人、ということになった。

そして、クラスの中でなんとも変な雰囲気に包まれることになり、
みんなからどことなく避けられるようになった。

そのとき坂口恭平さんはどう考えたか。

しかし、その時に「呪われたとは何事だ。呪いなんか存在しない」などと言うと、野暮なことを言っている人間と認定されてしまう。その時に、なんとなくこれは「遊び」なのだから「ルール」を守れと言われたような気分になる。正攻法で同じレイヤーでは戦っても勝ち目がない。それは多数決の世界だから。
だから怒ったり文句を言ったりしちゃ駄目である。そのような内紛や一揆や抵抗は、その「幻」の強化に繋がる。僕は「いじめ」についての結構天才的なフィールドワーカーだったので、それがよく分かってた。抵抗、反抗、先生という「司法」に言いつけるなどという行動はうまくいかない。全部グルだから笑
「こっくりさん」を「抽象的だ。呪いなんかあるわけない」と怒っても無理。「鬼ごっこ」で「お前が鬼なわけねーだろ」と言っても無視されるだけ。だから同じ「レイヤー」にはいなくてはいけない。これが僕が前著で書いた「学校社会も存在していることは忘れるな」である。ドロップアウトじゃ駄目なのよ

坂口恭平さんは、「こっくりさん」を否定しなかった。
その人たちが作った「遊び」は尊重する。
しっかりと「呪われ」る。それを受け入れる。
学校社会を受け入れる。

「それ自体は別に悪いものでもない、没入しなければ」

そして、
KOKKURISM(「こっくりさん」主義)に陥らずに、
KOKKURiZOOM(「こっくりさん」とは一体何か?)という
哲学的命題に切り替える。

「こっくりさん」に“呪われた”坂口さんは、
踊り場で「こっくりさん」に謝れと命令する彼女たちの指示に従う。
そして、「こっくりさん」って謝れば許してもらえるんだ、
ということを確認する。

ちゃんと「呪われて」いることは尊重してあげる。
「遊び」だから。
でも「鬼ごっこ」と同じテンションで。
鬼ごっこで鬼になっても誰も凹まない。
ただ鬼として「生きる」だけ。

だから坂口さんも、「呪われた人」として生きた。
そのこと自体に凹まない。
徹底して呪われた人として生きる。
呪いも意外と面白い!

しかし、三人組は面白くない。
なにしろ坂口さんが「こっくりさん」を信じ込んでいない。

というわけで、
坂口さんはさらに「こっくりさん」を怒らせたようで、
さらに深い呪いにかけられる。

そして、さらにまわりから避けられることになる。

でも、みんなから避けられたわけではない。
昔から無類の女好きの坂口さんは、
クラスにイチャイチャしている女の子がいて、
その子とはウインクしてた。
彼女は理解してくれてた。それが幻だって。

こうやって「こっくりさん世界」もちゃんと尊重しつつも、僕は別に「女の子たちといちゃいちゃする愛欲の世界」も持ってました。なので、昼休みなんかドッヂボールで遊んでいる男たちを無視して女の子たちに手作り便箋などを売り暴いたりしてました笑。手作りでなんでもできるイイ男でもあったのです笑

そして坂口さんは言う。
それらいくつもの世界が一つのレイヤーに
まとめられているという「幻」が「学校社会」だと。

坂口さんは、この「こっくり世界」を
ちゃんと「学校社会」の中で捉えようとした。
つまり「学級集会」の議題に出した。
「こっくりさん」を糾弾するのではなく、認識するために。

僕は手を挙げて、どうやら「こっくりさん」というものが存在していて、自分は「呪われた」状態にあることを伝えました。こっくりさんは通常、学級集会には登場してきません。だからみんなちょっと笑いました。文化祭の準備や係決めと同じレベルで「こっくりさん」を一つの世界として認識してると表明。
もちろん「こっくりさん」の呪いがもう面倒くさいから「呪いを解く」というのが目的なんですよ。でもただ反抗したり馬鹿にしたりせずに、つまり主義に陥らずに哲学的思考を提案する。「こっくりさん」とは何か?を議題として挙げたんです。担任の芋生(いもう)先生も面白い人だった。笑える冷徹な人。

議題に「こっくりさん」を上げて
どうやら僕は呪われているらしいことを伝えると、
みんな笑った。
議題に上がるようなものじゃないから。

でもこれで「こっくりさん世界」と「学級集会世界」が混ざったので、
本題に入れる。こっくりさんは「幻」であると言える。

でも彼女たちは「リアルだ」と言い張った。

そこで坂口さんは策を講じる。

公開「こっくりさん」をやってもらうことにしたのだ。
“なんでも知っている”「こっくりさん」に、
同じクラスの女の子の計算大会のテスト結果を
聞いてみようと提案した。

その子は頭が良くいつも100点。

三人組の手がもつ鉛筆は、
坂口さんの呪いの時は躊躇も無く動いたのに、
テストの点数の時は動きが芳しくない。
目とか合わせちゃってる。大丈夫か?

そして、結果的に1,0,0,と鉛筆は丸を描き、
100点であると示した。

坂口さんはにっこり。

その子が98点で、100点じゃなく悔しがっていたのを知っていたからだ。。。ということで、芋生先生は「はいっ、こっくりさんも間違えることがあるということでいいですね!」と言った。その瞬間、ふっと周辺の人の僕に対する呪いが解けたような体験をした。面白いなあと。
でもそれ以来こっくりさん自体が消滅してしまった。それはそれで寂しい思いをしたものです。ということで、僕はレイヤーという考え方を身につけていく。どちらが良いも悪いもない。どちらも等しく存在している。全て幻だが、それは「遊び」として人間の生命力として存在していると認識するようになった
口で言い負かすのは得意だったので、よくそれをやっていたのだが僕には先輩とか後輩とか役職とか全くどうでもよかったので、よく問題になった。野球部でキャプテンが怒っている横で「ま、こいつもエロ本とか読んでる皆と同じエロ野郎なんだから、みんな気にしないように!」とか言ってよく殴られてた笑
体制やヒエラルキーやイジメなどについてよくブチ切れていたと思う。それで何度も衝突した。しかし、それで気付いたのは虐めている人なども同じく辛い精神状態にある場合が多く。単純な善悪では決められないことを知った。それよりもあらゆる世界が存在することを示したほうが自然で効率的だと気付いた


以上がおおまかな話の流れ。

この一連のエピソードを語る坂口さんの言葉のなかで
私にとって特に印象的だったのは、

“正攻法で同じレイヤーでは戦っても勝ち目がない。
 それは多数決の世界だから。”

“抵抗、反抗、先生という「司法」に言いつけるなどという
 行動はうまくいかない。”

“ドロップアウトじゃ駄目”

という部分だった。

「正攻法で同じレイヤーで戦う」ということと、
「司法に言いつける」ということは、
相手やそのクラスの状況や、
もっと大きくいえば学校社会のあり方を、
直接糾弾し、直接変えようとする姿勢だ。

また、ドロップアウトは、「ただ自分だけの世界」。

そうではなくて、物事をレイヤーでとらえ、
見つめなおしてみる。
そこから何が見えるか、どんな行動がとれるか。

このまとめのページを作られた方が、最初に示している
「争うのではなくずらすのだ」
という言葉がとてもわかりやすい。

もちろんこのエピソードは坂口恭平さんならではのもので、
坂口恭平さんだからできたことかもしれない。

しかし、私としては、いちばん最初に引用した2文の意味を示す、
具体的な事例のプロセスを見ることができて、
とても興味深かったし、ありがたかった。

「いじめ」のない学校、「いじめ」のない社会にすること、
学校がはらむさまざまな問題を解決しようとすることは
とても大事だと思う。
何もしなくてもいいということではないと思う。

また、教師に言っても仕方ない、
学校に言っても仕方ない、ということでもない。

でも、他人はすぐに変えられないし、
学校もすぐには変えられないし、
社会もすぐには変えられない。

そんななかでも、
「いまそこに苦しみがある」
という事実があるとき。

他人や学校や社会が変わるのを待っていられない、
リアルな辛い時間がそこにあるとき。

その時間を切り開くために、
新しい自分の世界、地平を見出すために
当事者ができることはきっとある。

それがどんなレイヤーなのか、
どんなふうにずらせるのかは、
その人しだい、そのできごとしだいだし、
そこは自分で考えなくちゃいけない。

だけど、
「創造的に生きるための鍵は自分の手の内にあるんだよ」
ということを頭に入れておくことは、
きっと力になってくれると思う。
私はそう思った。

と同時に、「悪い場所からはできるだけ早く逃げる」
ということも頭に入れておいたほうがいいのかもしれない。
レイヤーでとらえ、ずらすことで対応できることには、
限界があるかもしれないから。
(>感覚を大切にするということ

〔追加記事〕
きのうの追加(「責任の所在探し」に解決を求めない道)


夏休みが終わった&2学期が始まった

今年の夏休みは、なぜか例年より短く感じた。

なぜだろう…?と考えてみた。

まずは、7月下旬に林間学園があったことが大きかった。
これが終わるまでは1学期の延長の気分だったから、
実質的には7月末から夏休みが始まった感じ。

それから、娘が成長した、というのもあると思う。

今年は、自由研究も苦労しなかった。
テーマを決めるときにはヒントを出したし、
途中の作成も一応少しは手伝ったのだけれど、
本人が興味のあるテーマを、
本人が興味のある手法で表現したので、
それなりに満足したのではないかと思う。

なお、何をしたのか具体的に書こうとも思ったのだが、
娘が書かなくていいというので、書かないことにした。
書いてほしくないというよりは
「自分で書くわけじゃないのに、なんだか面倒」
ということらしい。
その感覚、なんかわかる。
じゃあ、書かずにいるね。

それから、読書もノータッチ。
たまに図書館に行って別行動して、
自分であれこれ借りて読んでいた。

娘の学校の宿題では、長い感想文は書かなくてよくて、
どれか1冊について軽くコメントする感じなので、
これも姉とおしゃべりしたあと仕上げたらしい。
(私、そのあいだ昼寝してました〜)

ドリルの宿題は、一応、ノートを用意して、
全部ではないけれど、ある程度、復習をしていた。

で、夏休みが終わる直前にプリントを確かめたところ、
保護者会のときに保護者に配られたプリントでは
「要提出」となっているのに(私が)気づいて、
それを伝えると、本人は「心臓がとまるかと思った」そうだが、
当人(子ども)たちに配られた一覧ではそうはなっていない。

一応、ある程度はやってるんだから、
「要提出」ならそれを出せばいいし、
もし全部やっていないことで先生から何か言われたら、
ママが先生と話すよ、ということにした。

結果、「出したい人は出す」ということだったらしい。
嫌いじゃないな、このノリ。

それにしても、飽きたのか成長したのか
自分でもよくわからないが、
私自身が子どもの夏休みの宿題に翻弄されなくなった。

なお、2学期は宿題が「レベルアップ」するらしい。
簡単にいえば、(特別な場合をのぞいて)
基本的に先生がお題を出す宿題がなくなるそう。
そのかわり、家庭学習(自主学習)はやって、それを提出。

ですよねぇ!
6年生の2学期で、漢字ドリル・計算ドリルはないですよねぇ。
8ヶ月先には中学生になっているのだし。

とか言っているうちに、
気がつけば小学校生活が終わっているのかな。

時の流れって、不思議。


小学校生活もあと10ヶ月

このあいだPTAの臨時の用事で
学校に行ったときに、
運動場で低学年(たぶん1年生)が
運動会の練習をしているのが見えて、
かわいらしいやら、懐かしいやら、
なんともいえない気分になった。

わが娘は早6年生。

なんだか信じられない。

PTA室に行ったら行ったで、
最近はあまり来ないこともあり、
一昨年度の委員会グッズが目に入ったり、
昨年度の作業を思い出したりして、
こちらはこちらで感慨深い、というか
むしろ思い出深い。

PTA室に本格的に出入りするようになったのは
娘が2年生のときであり、
1年生のときには場所さえ知らなかった。

もう来年は、ここには来ないのだ。
(ちょっとムフフではある)

最近、どんどん過ぎていく時間に
自分がついていっていないことを
感じることしばしばなのだが、
「残り少ない娘の小学生時代
=残り少ない私の小学生保護者時代」を
もっと楽しまなくちゃ、
味わわなくちゃという気持ちになってくる。

どこをどう味わえばいいのか
いまひとつよくわからないままに・・・



宿題の半分が、「自主学習」になったよん(^^)

6年生になってから、宿題の形が変わった。

これまでと同じようなドリルの宿題に
(量はそれほど多くない)
「自主学習」が加わったのだ。

ノートを1冊用意して、
なんでもいいから(日記でも塾の宿題でも)
自分で考えたことで、
机に向かう時間を作るというもの。

すばらしい。

まさに、
算数ドリルの宿題で、「失うもの」はまったくないのか?
の後半で書いた形。
しかも、算数に限定していない。
なお、ページ数などの規定もない。

担任の先生が変わったからなのか、
6年生になったからなのか、
学年全体でのことなのか、
うちのクラスだけのことなのかはよくわからない。
今度他のクラスのおかあさんにきいてみよう。

保護者会で先生いわく、
「やらされることだけをやっていてもしかたない」

ですです。


・・・・・が。


初日の娘、なんと言ったと思います?
「ドリルのほうがよかった・・・」って・・・

  いや、私がきいたのかな?
  「もしかして、ドリルのほうがよかったって
  思ってる?」→「うん」ってな具合で。

5年生の3学期くらいに、
さすがにドリルの宿題に慣れてきて、
自分のペースができていたので
そう思ったのだろう。

というわけで、
初日はちょっと困ったのだが、
1週間たって少し慣れてきた感じ。

ただ、まだ、自分でどんどん
やりたいことを見つけるところまでは
いっていない。

というわけで、
いまのところ私もフォローしてる。
というか、いっしょにやってる。
(手を出しすぎちゃ意味がないから、
ちょっとずつ身を引かなきゃな・・・)

「なんでもいい」というのが、
よくわからない様子だったのだが、
始めてから4日目に、
「夕食づくりのお手伝い(の記録)」
でもいいのかな?と言ってきたので、
少しわかってきたかも。

  ただ、先生のコメントから察するに、
  予習はあまりお好きでない?
  (あるいは単なるギャグだったか
  「もうやっちゃったのー!?」という
  ニュアンスだったので^^;)

他の子どもは
どういう「自主学習」をやってるんだろ?
(そして、他の保護者はどう感じているんだろ?)
いつか紹介してもらえるといいな!

思うに、この形の宿題、
もう少しはやく始めてもいいかもしれませんよ。
4年生くらいから。

2学期の保護者会で聞けた、いい話で、
「子どもたちは調べ学習が好きなようです」
と先生が話しておられたことを書いたが(3年生)、
あのとき娘は「キツネ」を題材にしたのだけれど
「そこからいきますか〜」というところから
話を始めていて、
いま思えばなかなか新鮮だった。

あのくらいの年齢のほうが、
型にはまらないことをするかもしれない。

「ドリルの宿題=こなし仕事」に慣れちゃう前のほうが、
かえっていいかもしれませんよ〜(^^)


娘小2の頃の、ちょっといい話

新6年生スタートを書いていたら
思い出した話。

娘はどちらかというと方向音痴。
(というか、うちの家系が 
基本的に方向音痴。)

そして、学校では、
おっとりおとなしいタイプ。
(給食時間以外をのぞいて?
しゃきしゃき動くほうではない。

だから、小学2年生のときなど、
まだ校内に慣れていなくて、
教室から図書室に移動できずに
友だちに教えてもらったり、
ポケットからしょっちゅう落ちるティッシュを
しょっちゅう拾ってもらったりと、
学校ではことあるごとに
お友だちから助けられる日々だった。

そんな娘が、保健係になった。

熱が出たり具合がわるくなった児童を
保健室に連れて行く係。

あるとき、ある女の子が熱が出て、
娘が保健室まで連れて行くことになった。

保健室に着くと、
その女の子はこう言ったそう。

「○○ちゃん、ひとりで教室まで帰れる?」

具合がわるいときにまで、
こんな心遣いができるなんて・・・

この話をうちできいたときには
「立場が反対じゃーん!」と言ったものだが、
あれから4年たったいまでも、
心がほっこりする大事な思い出。

ちなみにこの話を、
2年生最後の保護者会で
一人一言のときに出したら、ウケた。

ちなみにテーマは、
「自分の子どもの成長したところ」
というものだった。

えっと、うちの娘の成長したところって
なんだっけ・・・と考え込み、
かろうじて思いついたのが、
「自分は人から助けられているということを
感じとれるようになってきたらしい」
ということだったので、この話にしたしだい。



子どもに残るもの

娘のクラスの担任の先生は変わったのだが、
学年主任の先生は同じだった。

この先生、よく怒る。

学校公開などで見かけるたびに、
よく怒るなぁ、疲れないのかなぁ、と思う私。

まあ、あの年頃の子どもを百何十人まとめるには、
ああいうふうに怒ったり、説教たれたりせんと
まとまらんのでしょうかね・・・

思うに、説教って、きいてほしい子はきいてなくて
(あるいは右から左に流して)
特にきく必要のない子、もうできている子ほど
過敏にきいているのではないか、という気がする。

去年の保護者会で、面白い話を2つきいた。

1つは、音楽鑑賞教室のこと。

毎年、行き帰りの電車のなかで
乗客に迷惑をかけがちなので、
担任の先生が行く前に30分くらいかけて、
注意をしておいたらしい。

で、確かに電車の中での態度は
よかったらしいのだが、
肝心の演奏会会場で悲惨な状態に・・・

複数の小学校が参加する催しなのだが、
とにかくうちの学校の生徒の態度が
ひっじょーーによろしくなかったのだとか。

先生にとって、演奏中に静かにするのは
あたりまえのことだったから、
この点については何も注意していなかったのだろう。

なるほどねぇと思った。

言われたことはやるけれど、
言われていないことを、
その場で判断してやるってことは
なかなかできないのね、きっと。

もう1つ面白かったのは、別のクラスの先生が、
「いま初めてきくような顔をしないでくださいっ」
と怒るのをきいて、ほんとにそうだよなぁ、
と思ったという話。

情景が目に浮かぶ。

何度も何度も同じこと言ってるのに、
「え、初耳・・・」って顔するんだろうなぁ、きゃつら


なのに不思議なのは。


こと「かけ算の順序」は
定着する(とされている)らしいんですよね・・・



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